十話 告白 (サーシャ)
サーシャは静かにティーカップを口元に運ぶ。折れた歯はもう差し歯に替えており、紅茶を飲んでも沁みたりはしない。
自分の家のダイニングでゆったりと紅茶を飲む日常。その幸せをサーシャは噛みしめた。
そこへ文人がわめいてくる。
「おい、聞いてるのか?」
「聞いていないわ」
「だから、俺が一番気に入らないのは、あの場でお前が命を捨てようとしたことなんだよ。分かれ」
「だから、簡単な話だと言っているでしょう?」
サーシャはいらだちを覚えながらカップをテーブルの上に置いた。
なんでこんな説教なんてされないといけないのだ? しかも文人ごときに。意味が分からない。
確かに、あの場での文人の活躍は認めてやってもいいだろう。榎本を生きたまま拘束できたし、宗作の治療も間に合った。
だからと言って、うだうだと説教を続けるなんてあり得ない。サーシャはうんざりしながらさっきから繰り返していることをもう一度言う。
「リータには宗作がいるわ。宗作にはリータが。文人は榎本を仕留めないとけいない。あの場で一番命が軽いのは私なのよ。私が死んでもリータと宗作が無事ならそれでいいじゃない」
「そんな訳ないって言ってるだろ!」
怒鳴られて内心酷く驚いたサーシャだけれど、それを悟られる訳にはいかない。どうでもいいけれど、文人の私服はダサすぎないか?
「リータのことをよく考えてあげないといけないの。もしあの場で私か宗作か、どちらかが死ぬとするわ。私が死んだ場合より、宗作が死んだ時の方がリータは悲しむの。死ぬべきは私の方なのよ」
「俺も悲しむ」
「ん? んー、まぁ……そうかもしれないわね。むざむざ民間人を死に追いやったら、警察での立場が悪くなるでしょうし」
「そうじゃない! サーシャに何かあったら、俺はどうしようもなく悲しくなるんだ!」
分かっている。優しい文人はチェスノコワ姉妹に何かあったら悲しむだろう。だけれど……。
「リータに何かあっても悲しむでしょう? そしてその場合、宗作も悲しむ。やっぱり私の方が命が軽いわ」
文人が黙り込む。サーシャは言い負かせたことに満足してクッキーを口にする。
クッキーを食べ終わっても文人は黙ったままだった。若干、気味が悪い。
ようやく口を開いた文人の声は暗く沈んでいた。
「……リータより、サーシャに何かあった時の方が、俺は悲しむ」
「はあ?」
文人は信じられないことを口にした。サーシャは言わずにいられない。
「あなたは姉妹ふたりともが大事でしょう? 今みたいな失言、リータが知ったら怒るわよ?」
「リータには宗作さんがいる。いいや違うな。その前から、俺にとってより大事なのはサーシャ、お前なんだ」
文人が真面目な顔つきでサーシャを見つめてくる。この男は何を考えているのだろう? 『読心』を使いたくても、相手に触れずに心を読むのは、藤田を前にして追い詰められたあの時限りだった。
「私の方が大事なんて、意味不明だわ。姉妹平等に大事になさいよ」
「そうしたいけど、違うんだ。俺は、サーシャのことが……」
「ちょっと待ちなさい! あなた、ロクでもないことを口にしようとしているわ!」
『読心』を使うまでもなく文人の心が読める。なんですって? そんなのあり得ない。文人ごときのくせに?
サーシャは自分の顔が赤らんでいるのを自覚した。なんで? 文人ごときに何か言われたところで、動揺するなんておかしいでしょう?
「ロクでもないは酷いだろ……」
文人が深いため息をつく。もしかすると傷付けてしまったのかもしれない。だとしても、文人が余計なことを言うのを封じなくてはならなかった。
「あなたは先の事件で頭がヘンになっているのよ。冷静になりなさい? 文人はチェスノコワ姉妹を平等に大事にしている。この当たり前の事実を思い出しなさいよ」
「けど、俺はサーシャのことが好きなんだ」
「ちっ!」
顔を背けて舌打ちをするサーシャ。なんてことを言うのだろう、この男は。文人のくせに。文人のくせに。
「お前、その態度はないだろ……?」
「ないのは文人よ。文人ごときがこの私に恋慕の情を抱くなんて、身の程知らずもいいところだわっ!」
「そういうところがなぁ……」
横を向きながら文人を見ると、向こうは耐え難い視線を向けてきていた。ものすごく居心地が悪い。
「な、何よ……」
「そういうところが、かわいいんだよ」
「バッ、バカじゃないの、あなたっ!」
サーシャは反射的に立ち上がり、後ろに下がりながら自分の身体を両手で抱く。今、この家にはサーシャと文人しかいない。非常に危険だ。
文人も席を立った。何をする気? リータに助けを求める? いいや、今のリータの邪魔をしてはいけない。どうするどうするどうする?
文人がテーブルを回り込んできた。どんどん近付いてくる。マズい! マズいっ!
「それ以上近付いたら、舌を噛んで死ぬっ!」
サーシャの決死の言葉に文人が立ち止まった。そして頭をかく。
「サーシャ、お前はホントに素直じゃないよな」
「話しかけないでっ! 寒気がするわっ!」
「寒気っていうか、顔真っ赤だぞ?」
「はあ?」
とっくに知っている。顔どころか身体中真っ赤っか。胸はドキドキ。そして頭はふわふわしていた。何これ?
「舌なんて噛むなよ?」
「へ?」
文人が大股で近付いてくる。サーシャが何かする前に、文人はサーシャを抱き締めた。
途端に腰が抜けそうになる。だけれど、サーシャの身体から力が抜けると、文人は一層強く抱いてきた。しがみつくみたいにサーシャも文人の背中に手を回してしまう。
「好きだ、サーシャ」
「え、ええ……実はずっと前から知っていたわ」
「だろうな。で?」
「で?」
「お前の気持ちを、聞かせてくれないか?」
「ほ、保留していい……?」
「今、聞きたい」
「今? 今なの?」
サーシャはとんでもなく混乱していた。文人がサーシャを好きなのは心を読んでとっくに知っていたけれど、告白なんて真似をしでかす度胸なんてないとタカをくくっていたのだ。
なのに告白してきた。さらに図々しくも、サーシャの気持ちを聞いてくるなんて。
「聞かせてくれ、サーシャ」
「私は……文人しか同年代の男を知らないの。ずっと家に閉じこもっていたから」
「そうだな」
「比較対象がないの。文人といると楽しいかもしれないわ。安らぐかもしれないし、胸が温かくもなるかも? だけれど、この感情は同年代の男だったら誰にでも抱くものかもしれない。その可能性を、どうしたって捨てきれないの」
「自分の感情の正体が分からないのか? サーシャは頭がいいんだろ?」
「そうよ、私は頭がいいわ。文学を嗜んでいるし、哲学にも精神医学にも、さらには文化人類学にも通じている。それらを総合して仮説を立てることは可能かもしれないわ。だけれどそれはあくまで仮説であって……」
「一言で言え」
「好き」
言ってしまった。ああ、言ってしまった。
だけれど不思議と後悔していない。甘やかなものが胸から身体中に広がっていく。
「キスしていいか、サーシャ?」
「ダメに決まっているわ」
「え?」
サーシャは文人の両肩をぐいっと押す。よろよろと離れていく文人。
「調子に乗るも大概にして頂戴」
「え? けど、サーシャは……俺のことが好きなんだろ?」
「あなた、私の身体が目的なの?」
「ええ?」
「汚らわしいわ。ホント、汚らわしい。好きだなんていいながら、私との過剰な肉体的接触を目論んでいるのよ、文人は」
「ち、違うって。キスだけ……」
「だけ? 乙女との口づけを、だけ呼ばわりするの?」
「い、いや……」
「私も随分と安く見られたものね! 文人の分際で、私とキスなんて百億年早いわっ!」
両手を腰に当ててふんぞり返るサーシャ。そして言ってやる。
「今すぐ家から出ていって頂戴! 強制わいせつの罪で、実名入りで新聞に載りたくなければねっ!」
「ええ~~~」
文人は全身脱力といった有様で、実に情けない顔をしている。なんで私はこんな男が……と思いかけて自分の考えを打ち消すサーシャ。自分の感情はこの際脇に置いて、貞操を守ることを優先せねば。
「さあ! 出ておいき! 今すぐね!」
「分かった、分かったって……」
すごすごと文人が家を出ていく。それを玄関から見送っていると、門の手前で文人が振り返ってきた。まだ何かする気?
「次の休みこそ、一緒に外へ出るぞ」
「うーん、いまいち気が進まないわ」
言われて思い出したけれど、そもそも文人がサーシャを訪ねたのは、外へ連れ出そうなどと企んだからだ。
サーシャはもう外へ出ていける。だけれど、外は電磁波と危険がいっぱいなので進んで行く気にはなれなかった。
「俺と一緒なら平気だろ?」
「なんだか腹立たしい言い回しね。文人ごときを頼りにする私じゃないわ」
「まぁいいや。また来る」
「呼ばない限り、来ないで頂戴」
そして文人は手を振りながら門の向こうへと消えていく。サーシャもお義理で手を振ってやる。
「文人と外へねぇ……」
それってデートじゃない?
「まさかまさか、そんな」
玄関の扉を閉めたサーシャは、ダイニングに置いたままのクッキーをリータの知らない場所に隠した後、自分の部屋に引きこもった。
ちょうど衣装の整理をしようと思っていたのだ。断じて、文人好みの服を選ぶわけではない。
「ふんふふんふふ~ん♪」
取っておきを着て、姿見の前で軽くターン。
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