四話 サーシャは丸め込む (サーシャ)

 サーシャは手間取りながらも会計を済ませた榎本と店を出る。リータならいくらでも抜け出すチャンスを見付けたのだろうけれど、サーシャはどうしても勇気を出して動くことができない。

身体能力に自信がないというのもあるけれど、下手をして暴力を振われることが怖くて仕方がなかった。


「よし、乗るんだ」

「車に乗るの?」

「当たり前だろ? オフィスまで来てもらおう」

「……くっ」


 コートで隠された左手を突き付けられて、サーシャは嫌々ながらも自動車に乗り込む。左ハンドルのドイツ車なので右の前座席に座らされる。

 榎本がエンジンを掛けた途端、サーシャは激しい頭痛に襲われた。こんな至近距離で電磁波の束を食らっては堪ったものではない。

 そんなサーシャにはお構いなしに榎本は車を発進させる。ここから都会までは一時間程度か? サーシャにとっては果てしない地獄行以外の何ものでもなかった。


「おいっ、帽子くらい取れ!」

「やめてっ!」


 電磁波対策を施されたチューリップハットを剥がされて、サーシャはさらなる電磁波に晒される。頭が痛くて今にも吐きそうだ。


「吐く……吐く……」

「はぁ? 何言ってんの、お前!」

「せめて帽子……帽子を被らせて……でないと吐く……」

「分かった分かった! 何なんだお前! 何なんだお前!」


 とにかく帽子を渡される。帽子を取られた時に髪留めが外れたらしく、アップにしていた髪が乱れてしまった。こんな時だけれどきちんと髪を下ろしてから帽子を深く被る。頭はあいかわらず痛いけれどずっとマシになった。


「お前、高杉の家にいた奴とは違うのか?」

「私は双子の姉なの。私に乱暴なことをしてみなさい。妹があなたを生かしておかないから」

「ふんっ! それはお前ら次第だね。まずは例のカウントダウンを完全に止めるんだ。その後は高杉をこき使うための人質になってもらおう。なぁに、僕だって暴力は好きじゃないよ。全てを穏便に済ませるためにみんなで協力し合おうじゃないか」


 自分のペースになった榎本は以前のような嫌みったらしさが出ている。


「全てを穏便に済ませるのには私も同意よ。あなたが例のページを消せば全部丸く収まるの。宗作をこき使うのはその後から何とでもなるはずよ」

「いいや、まずは高杉に働いてもらう。今からサービスを作り変えるには、中身を把握している高杉にやらせるのが一番早いんだよ」

「賃金も踏み倒せるし?」

「これだけの騒ぎを起こしたんだ。むしろ僕が賠償金を請求したいくらいだよ」


 本気でそう思っているらしく榎本は鼻息を荒くした。あくまで自分を中心にして物事を考える男だ。

 それより思わぬ危機に陥ってしまった。どうする? リータを起こして助けてもらう?

 いいや、今回の作戦はリータの意向を無視して行ったものだ。今さらリータに助けを求めるなんて間違っている。リータを危険に晒すわけにはいかない。

 それに、これからリータは新しい世界へ踏み出していく。そうなればサーシャは自分一人で生きていかないといけない。今からリータに頼っていては駄目だ。

 自分の手で……自分の手で、危機を乗り切らねば。






 都会方面を目指す車はすぐに高速道路に入っていく。エンジンの点火プラグの火花放電で生じる電磁波が、サーシャの頭を厳しく痛めつけた。

 何とか今の状況から逃れて家へ帰りたい。サーシャは頭の痛みをこらえながら榎本を出し抜く作戦をまとめていく。

 思い付いた作戦はリスクが高かった。失敗すると暴力を振われるに違いない。それでもやらねば。何としてでもやり遂げて、無事に家へ帰るのだ。

 サーシャは一度目を閉じると内心の恐れを抑え込む。そして目を見開いた。


「よしっ!」


 まずは情報収集から。サーシャは榎本がシフトレバーを操作したタイミングで奴の手に触れた。そして『読心』。


「何をする!」


 榎本がサーシャの手を払い除ける。しかしサーシャは必要な情報を十分に手に入れた。


「『MFキャピタルズ』の藤田将好ふじたまさよし

「えっ!」

「前を向いて運転して頂戴!」


 反射的にサーシャの方を向いた榎本を叱りつける。高速道路を走っているのだ。ここで事故を起こされるわけにはいかない。

 榎本は明らかに動揺していて歯をガチガチと鳴らしている。サーシャの方は敵が狼狽すればするほど落ち着いてきた。


「言ったでしょう? 宗作のソフトを『何よりも重要な出資者』様に提供する、と。あれはただのハッタリではないわ。あなたの出資者については調べが付いているの」

「ど、ど、ど、どうする気だ?」


 榎本の恐怖は天井知らずに高まっている様子。一方のサーシャはいい気味だと榎本の無様を楽しむ余裕すら出てきた。


「どうとでも? 私は慈悲深い女だからソフトを渡すのはやめておいてもいいわ。だけれど、サービスの会員数を水増しして虚偽の経常利益を報告をしていることを教えるくらいならどうかしら? 資金繰りに苦しむあまり、ヘンな投資話に首を突っ込んで五百万円の損失を出したことでもいいわね。『MFキャピタルズ』を相手にする場合、ほんの少しでも隙を見せてはならないと思うのだけれど?」


 これはただの脅しである。榎本の記憶によると『MFキャピタルズ』の藤田という男はかなり厄介だ。恫喝しながらもあくまで合法的に取引を進めるタイプ。

 下手に歯向かうとただの恫喝では済まなくなるはず。近寄らないで済むなら近寄らない方がいい相手だ。


「じゃ、じゃあ、お前をこのまま解放するわけにはいかないね……。ああ……車を汚したくないんだけどなぁ……」


 榎本の声が震えている。これ以上追い詰めると暴力を振われかねない。いきなり拳銃で撃ってくる可能性すら?

 これでいい。危ない橋ではあるけれど、まずは敵をある程度追い詰める必要があるとサーシャは考えていた。


「……あなたにとって『MFキャピタルズ』はよほど恐れないといけない相手のようね」

「そ、そんなことはないぞっ!」


 サーシャにつけ込まれないようにせいぜい虚勢を張る榎本。当然の態度ではある。


「榎本さん、あなたは『MFキャピタルズ』から解放されるわ」

「え?」


 サーシャが優しい声でつぶやくと榎本は一瞬呆けた顔になった。そのまま事故を起こすのではとサーシャは肝が冷えたけれど、榎本はどうにか立ち直って運転を続ける。

 追い詰めてから脱出口を提示。そこに混乱が生じるはず。


「私にいいプランがあるの。あなたにとってとてもいいプランよ」

「こ、小娘ごときがわけの分からないこと言うな! ビジネスはそんな簡単なものじゃないんだっ!」


 ここでサーシャは数字の羅列を口にする。


「え? その口座は……」

「そう、シンガポールの口座ね。これの存在を知っているのはあなた以外には何人いるのかしら?」


 サーシャは余裕たっぷりに言ってのけた。本当は電磁波で頭が痛くて仕方がない。


「なんで知ってるんだ……。い、いや、そもそも……」

「危険な融資元、粉飾決算、投資の失敗、隠し口座……。あなたと宗作がトラブルになっていると妹から聞いて、私は調査を始めた。十日ほど前ね。そして今日までにあなたのウィークポイントは完璧に把握したの。小娘ごときですって? 私の能力をもう少し高く評価してもらいたいわ」


 ほとんどの情報はさっきの『読心』で把握したのだけれど。


「い、いや、あり得ない。ただの小娘にそんな……」


 口では否定するようなことを言いながら、榎本はサーシャの言葉に飲まれつつある。いい傾向だ。


「スポーツを見れば分かるけれど、ロシアでは閉塞した日本からは想像もできないような能力開発が行われているの。日本では埋没してしまうような才能も、向こうでは大いにその翼を広げることができる。私のようにね」

「ロシア……ロシア?」


 一般的な日本人から見ればロシアは謎の国だ。何が行われていても不思議ではない……と、思い込んでいる。サーシャはそこを利用した。

 実際は、サーシャは三才の時に日本へ来ているので、ロシアで英才教育が行われていたとしても関係ないのだけれど。


「もう一度言うわ。榎本さん、あなたは『MFキャピタルズ』から解放される」


 サーシャは榎本に向かって優しく微笑んだ。こんな男に笑顔のサービスなんて本当はしたくはない。


「いや、そんなことが可能なわけ……。あいつらの融資がないと僕は……」


 榎本がぶつぶつとつぶやく。敵に落ち着く暇を与えないようサーシャは話しかけ続ける。


「私の能力については疑問の余地はないわよね? その私が下手なことを言えば命が危ない状況で提案するプランなの。あなたを満足させる内容だと自信を持って言えるわ。次の出口で下りて頂戴。車を停めて話をしましょう」

「く、車を停めるわけにはいくか! 逃げるに決まってるっ!」


 そう簡単には言いなりにはならない。それでもサーシャは冷静な態度で話をしていく。


「いいえ、逃げないわ。私のプランを聞けばあなたは喜んで私を解放するに違いないの。それが分かっていて銃を持つあなたから逃げるなんてリスクの高い方法は選ばないわ。次の出口が近いようね。そこで下りて頂戴」

「じ、じゃあ、今ここで話せ。車を走らせながらでも話は聞ける!」


 サーシャが静かな態度であればあるほど、それが癇にさわって榎本は平静ではいらなくなる。二人の関係はちょうどシーソーのよう。


「運転しながらだと大事な話に集中できないわよ。相手が相手だけに聞き逃しや聞き間違いなんてあってはならないと思うけれど。出口が近付いてきたようね。そこで下りて頂戴」

「い、いや、オフィスだ。オフィスで話をしよう!」


 粘る榎本だけれど額には脂汗が浮かんでいる。サーシャとしてはここが踏ん張りどころだ。


「あなた、何様のつもりなの?」


 サーシャは苛立ちを露わにした声を隣にぶつける。当然演技だ。


「え? どういうことだ?」


 急にサーシャの態度が変わって榎本は驚いた様子。


「あなた、私が時間当たりいくら稼いでいるか知っているの? この私が無料でプランを提供してあげると言っているのに、さっきからグダグダグダグダ……。私は逃げないと言っているでしょう? ちょっと高速道路を下りて車を停めるだけじゃない。そんなに私の機嫌を損ねたいの?」

「い、いや、でも……お前はひとじ……」


 榎本が言い終わるのを待たずサーシャは言葉を被せる。首を大きく横に振って尊大な態度で。


「関係ない。この際、そんなの関係ない。エキスパートとしてのプライドを酷く傷付けられたわ。ここまで軽く見られるなんて、この、私が! もう好きすれば? あなたがどうなろうと私にはどうでもいい話。そうよ! 勝手に自滅すればいいんだわ!」


 ぷいっと反対側を向くサーシャ。


「お、おい、今さら……」


 苦境を脱する光明があると思わされた後だけに、榎本は情けない声を漏らしてしまう。

 ここでサーシャは身体をひねって榎本の方を向く。


「じゃあ、そこの出口で下りて頂戴。話を聞きたければ」


 見えてきた出口をびしっと指差す。榎本をきつく睨みながら。


「ちっ!」


 舌打ちをした後、榎本は出口から高速道路を下りていった。そしてすぐ近くにあったコンビニの駐車場に車を停める。

 危ない綱渡りだったけれどうまくいったようだ。サーシャは自分の手のひらが汗でぐっしょりと濡れているのに初めて気付いた。

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