六話 サーシャは出くわす (サーシャ)

 榎本は都会の北辺りで高速道路を降りる。ここからそう遠くない場所にオフィスがあるらしい。


「腹が減ったね。何か食べていくかい?」


 ご機嫌な榎本がサーシャに語りかけてくる。当たり前だけれど、絶え間なく自動車の電磁波を浴び続けているサーシャに、食欲なんてあるはずがなかった。


「昼食なんてデリバリーピザで十分よ。オフィスに着いてから頼めばいいわ」

「それもそうだ。ピザを食べながらこれからのプランを詰めよう」


 サーシャをみもろ台まで送り届けるのが、榎本を救うプランを進める条件だったはず。だけれど自分勝手な榎本は、このままでは全てが白紙になるとは考えていないようだ。まぁ、どのみち全部、サーシャのでっち上げなのだけれど。

 やがて自動車はビルの中にある地下駐車場に入っていき、そこで停止した。やっと着いたかと、間近から電磁波を浴び続けたサーシャはひとまずホッとする。

 これから榎本のオフィスまで行くのだけれど、その間、疑り深い榎本はサーシャが逃げないか警戒し続けるはすだ。本来なら敵を消耗させて優位に立ちたいところだけれど、榎本は銃を持っている。サーシャとしては下手に刺激したくない。


「まず分かって欲しいのだけれど、今さら私は逃げたりしないわ。そのことを、ちゃんと分かって頂戴」

「そうやって油断させようって魂胆かい? この銃はすでに試し撃ちもしてるんだ。下手な考えは捨てた方がいいよ」

「だから、私は逃げないって言っているの! 今の状況なら、あなたとの取引を成功させる方がより安全だと理解しているわ。今一番恐れているのは、私に向けているその安っぽい銃が暴発することなの」


 しかしサーシャの言葉は通じないらしく、榎本はサーシャに銃を向けながら慎重に車を降りた。


「さあ、降りたまえ。余計なことはしてくれるなよ?」

「だからしないって言っているの! あなたこそ手を震わせるのをやめて頂戴!」


 生きた心地がしないまま、サーシャもゆっくりと車から降りる。すぐに腕を掴まれ、脇腹に銃が突き付けられた。


「オフィスはここの五階だ。ああ、喉が渇いたよ。キミにもコーヒーをご馳走してあげよう」

「どうせインスタントでしょう?」


 その憎まれ口には応えず、榎本はぐいぐいと腕を引いてエレベーターの中にサーシャを引き込む。そして五階のボタンが押される。




 五階で扉が開くと、向こう側に男がふたり立っていた。榎本の部下だろうか? サーシャが見たところ、IT系のスタートアップの社員にしては随分といかつい。

 サーシャはすぐに相手の素性に思い当たった。榎本の強ばった顔つきを見て確信する。

 榎本が弱々しくこぼす。


「『MFキャピタルズ』の……」


 最悪の事態だ。絶対に関わり合いになりたくなかった『MFキャピタルズ』の人間が、よりにもよってこのタイミングで現われた。何としてでもこの場を逃れなくては。


「やっと来たな、榎本。あんたのオフィスで社長がお待ちだ」

「な、ななな、なんで、藤田社長が……? アポイントメントもなしに?」

「アポ? ごちゃごちゃ言ってねぇで早く来い!」


 男のひとりが丸太のような腕を伸ばし、榎本の後ろ襟を力任せに掴んだ。

 サーシャは自分の脇腹にあった銃口が離れたのを察知する。ここで発砲されたら何がどうなるかまったく予測できない。気を失いかねないくらい動揺したサーシャだけれど、榎本は銃を自分のズボンのポケットに押し込んだ。

 さらにサーシャの腕を掴んでいた手も離す。

 チャンスだ。


「アー、エノモト シャチョー、オシゴト イソガシイン デスネー。ジャー、マタ オミセ キテクダサイ。サヨナラー」


 サーシャは片言の日本語で明るくまくし立てると、エレベーターの隅に移動した。


「ちょっとキミ!」

「サヨナラ、シャチョー。オミセデ マッテマース」


 満面の笑みで両手を振って榎本を見送ると、男達はサーシャに興味をなくしたらしく榎本だけを見た。


「おら、来いよ!」

「乱暴はやめたまえ!」


 男が榎本をエレベーターから引きずり出す。すぐさまサーシャは『閉じる』のボタンを連打した。どうにか笑顔のまま。

 扉がゆっくりと閉まっていく。

 早く! 早く閉まって! サーシャは心の中で叫ぶ。


「キミ! プランの話は! 僕の会社を建て直す!」


 榎本が絶叫すると同時に、扉の隙間に丸太の腕が差し込まれた。






 フロアにはテーブルを向かい合わせにして作られた島が四つあり、その上にはコンピュータ機器がずらりと並べられてある。四十人ほどが作業できるだろうか。

 そして入り口から見て左隅にあるのが、榎本の席だろう。

 今は違う人物が座っている。

 見た瞬間、サーシャはゾッとした。『読心』を使うまでもない。あそこにいるのはマトモな人間ではなかった。


「そのお嬢ちゃんはなんや?」


 『MFキャピタルズ』の社長、藤田らしき男が声を出す。ダークブラウンのスーツも、カーフの靴も、時計も、どれもが高級品ながら、ありふれたブランドのものではない。洒落た紳士。見た目だけは。


「社長、よく分からん女なんで連れてきました」


 左手で榎本の後ろ襟、右手でサーシャの後ろ襟を掴む男が言う。

 机の上に足を投げ出していた藤田が立ち上がる。


「よく分からんてなんやねん」


 軽くジャンプすると榎本の机の上に乗った。さらに跳んでテーブルの上へ。行く手を遮るモニタや本を蹴り飛ばしながら、入り口の方へと近付いてくる。

 ここまで来られる前に逃げなくては。サーシャは全力で芝居を打つ。


「ワタシハ タダノ ほすてすデス。シャチョーハ オキャクサン。ソレダケデス」


 できるだけ身振り手振りを大きくし、明るい声を出した。そうやって、ここには場違いな女だとアピールする。


「ホステス? キミ、何言ってるんだ!」


 隣で榎本がわめいているが、無視して続ける。


「ワタシ、ソロソロ オミセニ イカナイト。チコクシタラ バッキンデス。オネガイシマス。イカセテクダサイ」


 試しに動いてみるが、後ろの男はサーシャを解放してはくれない。それどころか怒鳴ってきた。


「ああ? さっき榎本が言ってたプランだかはどうした?」

「ソレハ デスネー」


 後ろのいかつい男と藤田を交互に見ながらサーシャは続ける。


「ワタシ、ほすてすデス。ほすてすハ オキャクサント オハナシシテ タノシンデ モライマス」

「まぁ、そやな」


 いつの間にか藤田が真ん前に立っていた。今は床の上だ。

 昏い闇そのものの眼で間近から見つめられ、サーシャは心臓を鷲づかみにされたような恐怖を覚える。だけれどなんとか乗り切らないと。サーシャは勇気を振り絞って続ける。


「ほすてすハ オキャクサンニ ハナシヲ アワセルノガ シゴトデス。エノモト シャチョーガ ぷらんノ ハナシヲスルノ ワタシハ ヨクワカラナイケド ウンウンッテ キイテマシタ」

「キミ! さっきからデタラメばっかり!」

「榎本さんは黙っとこうか?」


 藤田はあくまで静かに言ったのに、榎本は返事すらできなかった。サーシャも口をつぐんでしまう。


「そうか、キミはホステスさんなんや?」

「ハ、ハイ……」


 かろうじてうなずくサーシャ。目の前の男は十代のような艶やかな肌をしているのに、眼だけ老人のように落ちくぼんでいる。まったく正体が掴めない。早く逃げないと。


「ホステスさんか……大変や」

「ハイ……タイヘン、デス……」

「処女やのにな」

「え?」

「いや、処女で男知らんのにホステスは大変やろ?」


 にっこり笑ってみせる藤田だけれど、眼孔は相変わらず闇の中にあった。


「ワタシハ……」


 どう言っても事態は好転しないように思えた。どう言うべき? サーシャは自分の頭の回転が恐ろしく鈍くなっているのを知ってがく然とした。


「処女だろ! 社長が処女だと言えば、絶対に処女なんだ!」


 後ろの男が楽しげ言う。その隣にいる男も続く。


「社長、なんで毎回分かるんですか?」

「なんでて、匂いや」

「匂い? 処女は匂うんですか?」

「めっちゃ……ええ匂いがするんや、処女は」


 サーシャの後ろにいるふたりがドッと笑い声を出す。

 なんという恥辱。サーシャはカッと頭に血が昇るのを感じた。ここは堪えないと。しかし自分を抑えきれない。


「処女だからって、あなたにとやかく言われたくないわっ!」

「社長になんて口利くんじゃ!」


 急にサーシャの身体が反転した。正面に見えるのは丸太のような腕を持つ男。その腕を振り上げている。

 まさか? 冗談でしょ?


「ぎゃっ!」


 脳が激しく揺さぶられた。

 自分の身に何が起こるのか直前に予測できたけれど、それを現実のこととして認識できない。当たり前だ。男に本気で殴られたのなんて、生まれて初めてなのだから。

 揺らいでいた意識がどうにかまとまってくる。なぜ身体中が痛いのだろう? 殴られて床に転がったのだとようやく気付いた。両手で踏ん張って上体だけを起こす。口の中に違和感があるので舌で触れてみる。


「つっ!」


 何かが口からこぼれ落ちた。続いて血と唾液が混じり合ったものが垂れて糸を引く。


「なに……これ……?」


 拾い上げてみると、血に塗れた白い塊だった。


「は……?」


 歯を折られたのだ。

 殴られて歯を折られる。遠いフィクションの世界ではありふれた出来事だけれど、それが自分の身に降りかかるなんて思ってもみなかった。だけれどジンジンと口の中から広がってくる痛みが、現実の出来事なのだと思い知らせてくる。


「おい、高橋! 何やっとんじゃ!」


 その声に驚いたサーシャが顔を上げると、怒鳴り声を挙げたのは藤田だった。サーシャを殴った大男がペコペコと藤田に頭を下げている。


「す、すんません、社長!」


 藤田が這いつくばるサーシャの方へと屈み込んでくる。


「すまんな、お嬢ちゃん。かわい顔が台無しや」


 藤田は内ポケットから細長い塊を取り出すと、床に放り投げた。百万円の札束。


「これで治し」


 また形だけの笑み。

 サーシャは何も言葉を返せない。罵倒? お礼? 何をすべきか判断できない。ズキズキと頬と口の中がひたすら痛む。痛みだけが、今のサーシャの現実の全てだった。

 生まれて初めて受ける暴力。正体が掴めない男。絶対的な孤独。サーシャは、無理をして外へ出たことをどうしようもなく後悔した。


<助けて、リータ>

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