五話 サーシャはでっち上げる (サーシャ)
さて、どうにか高速道路からは下りたけれど、ここから引き返してみもろ台まで帰らねば。サーシャは恋しい我が家を想いつつ、気を強く持って引き続き敵に立ち向かう。
サーシャが榎本の様子を見てみると、元々陰険な目付きがさらに酷いものとなっている。サーシャに見られていると気付いたらしい榎本が視線を向けてきた。本来なら視線を交わしたくない相手だけれど、ぐっと我慢して相手を見つめるサーシャ。
「それでは始めましょうか。あなたにとって一番好ましい展開は、『MFキャピタルズ』と手を切って新しい融資元と取引することよね?」
「ああ、そうだ……」
榎本はまだまだ警戒を解いていないけれど、その視線からはサーシャのプランに対する期待が隠し切れていない。サーシャはこれを取っ掛かりに敵を自分のペースに引っ張り込む。
「『オデット・アセットマネジメント』という投資信託運用会社があるの。ロシア系よ。今すぐ検索してみるといいわ」
「検索?」
「あなた、スマホの使い方も知らないの!」
サーシャが強く言うと、慌てたように榎本がスマホを操作し始めた。その電磁波はサーシャを苦しめるけれど今は我慢する時だ。
「あった……確かにその会社は存在する……」
「その社名と、『アンドレイ・ニキートヴィチ・ボドロフ』という人名をロシア語に翻訳なさい。その二つの単語をまとめて検索するとヒットするサイトが出てくるはずよ」
榎本がもたもたとスマホを操作するのを、サーシャはいらいらとしながら待つ。スマホの電磁波がかなりきつい。
「……ああ、出てきた。ロシア語だからわけが分からないけど」
「日本語に翻訳しなさいよ、気転が利かないわね。さっきの人物はその会社の役員なの」
「そうだ、そう書いてる」
すっかりサーシャの言いなりになっている榎本だけれど、本人はそれに気付いていない様子。
「このアンドレイ・ニキートヴィチ・ボドロフっていうのは私の父の偽名なの。偽名を使っているのはちょっとした事情があるからよ。察して頂戴」
軽くウインク。
「え? ……そうなのか? いや、でも……」
榎本は確信の持てない話を聞いて混乱している。サーシャは話をどんどん前へ進めていく。
「ところで私のフルネームは『アレクサンドラ・ユーリエヴナ・チェスノコワ』っていうの。以後お見知りおきを」
「え? うん?」
サーシャが深々と頭を下げると榎本もつられて軽く頭を下げてきた。
「それじゃあ、今から言う携帯番号に電話をかけなさい。『オデット・アセットマネジメントのアンドレイ・ニキートヴィチ・ボドロフさんですか? アレクサンドラ・ユーリエヴナ・チェスノコワさんのご紹介でお電話いたしました榎本と申します』って言うの。日本語で通じるわ」
「あ、ああ……」
サーシャが言った電話番号に榎本が電話をかける。
これは賭けだが九割方勝てる賭けだ。『オデット・アセットマネジメント』の『アンドレイ・ニキートヴィチ・ボドロフ』氏は実在の人物ではあるけれど、前に雑誌で名前を見ただけの赤の他人だ。それでも優秀な軍人をしていた父はすぐに事情を察知して話を合わせるはず。
榎本はサーシャに言われた通りのセリフを言う。
「あ、はい。いえ……その……娘さんに変わります」
焦った様子の榎本がスマホを差し出してくる。こんな強力な電磁波を発しているものを受け取るわけにはいかない。
「私はスマホが嫌いなの。後からかけ直すと言って頂戴」
顔をしかめて言うと榎本は素直に言う通りにして通話を切った。
榎本が深いため息をつく。顔が青い。
「父は激怒していたでしょう? 溺愛する娘の名前を知らない男から出されたのだからね」
サーシャは意地悪げに言ってやる。
「ああ……静かな声なのがかえって迫力だった……。マフィアか何かなのか?」
「失礼ね、ただ子煩悩なだけだわ。さて、ここからはビジネスの話よ」
こほんとサーシャは咳払いをしてシートに座り直す。頭痛は止まらないがここは余裕を見せなくては。
「あなたの会社が運営しているサービス『ぷらぷら』を見たわ。あれでは利用者数が減るのは仕方ないわね」
「い、いや、バージョンアップさえすれば……」
榎本はバージョンアップさえすれば全てがうまくいくと思っている様子。何もかもがうまくいっていない人間が陥りがちな思考のひとつだ。これを利用する。
「そう、将来性は十分にあるサービスよ。リニューアルすれば黒字転換もすぐでしょうね。リニューアルさえすれば」
「そうだ。そうなんだよ! そのためには金がいるんだ! だから僕は……」
「そう、全ては資金よ。資金さえあれば全てはうまくいくの。だけれど誰も融資しないから『MFキャピタルズ』なんてところからの融資を受けざるを得なかった。宗作みたいなへっぽこプログラマの手を借りないといけなかった」
「そうなんだ。そうなんだよ……僕だって好きであんなところと……」
十代の女の子に愚痴みたいなことを言い始める榎本。それをいちいち聞いてあげるほどサーシャは優しい女ではない。さっさと話を進める。
「父に頼んで『オデット・アセットマネジメント』から融資させてもいいわよ」
「え?」
見開いた榎本の目の奥には光が灯っていた。うまく針に食い付いたとサーシャは内心ほくそ笑む。
「あくまでビジネスなの。『オデット・アセットマネジメント』があなたの『ぷらぷら』に融資する。『ぷらぷら』はバージョンアップする。『ぷらぷら』が収益を上げる。『オデット・アセットマネジメント』は利益を上げる。『ぷらぷら』に融資するだけの将来性があるからこそ可能な案よ」
「そんなことが可能なのか……」
藁にもすがりたい人というのはこういう顔をするのかと、サーシャは覚めた頭で思う。
「言いたくないのだけれど、私の妹のリータは宗作に惚れているのよ。妹は宗作のためなら何でもする。そして父は妹を溺愛しているの。当然、私も愛されているわ。姉妹で頼めば多少の無理くらい聞いてくれるはずよ。あくまでビジネスとして成立しているという前提条件はあるけれど」
「『ぷらぷら』は有望なサービスだよ! 僕はあれに賭けてるんだ!」
そんな夢見る眼差しで見つめられてもサーシャは迷惑なだけ。本来人を騙す時は相手の目を見るべきなのだけれど、サーシャは我慢できずに視線を逸らす。
「そうね『ぷらぷら』は有望なサービスよ。ただ、この話を進めるにはひとつ注意点があるわ」
「注意点?」
どうにかサーシャは榎本を見る。これから言う注意点は重要だからだ。
「『MFキャピタルズ』にはこの話を一切しないこと。こちらの動きに感付いたらなんらかの干渉をしてきかねないの。こちらは面倒事は御免だから感付かれたら即撤退する。全部の話が終わるまで、向こうへは何のアクションも起こさないで」
サーシャは厄介そうな『MFキャピタルズ』とはほんの少しでも関わりたくなかった。
榎本にしても『MFキャピタルズ』の融資があるからかろうじて会社が潰れずにいるのだ。サーシャのでっち上げ融資を真に受けていきなり向こうとの取引を停止したらたちまち会社は潰れてしまうだろう。
そうなればさすがのサーシャも心が痛む。榎本に対してではなく、他の社員たちに対して……。
「わ、わかった……確かにギリギリまで連中には伏せておいた方がよさそうだ」
「理解が早くて助かるわ。当然のことながら、この話を進めるには条件があるの」
「条件? 条件か……」
榎本が苦い顔をする。サーシャこそここまで話が大きくなってしまって不愉快なのだけれど。
「あなたにとっては簡単なことよ。こちらの条件は三つ。一つ目、宗作の願いであるあのページを消すこと。二つ目、宗作をあなたの会社に戻そうとしないこと。まぁ、資金が潤沢になれば宗作なんて必要でなくなるのでしょうけれど。そして三つ目、今すぐ私を家へ送り届けて頂戴。融資の話はその後よ」
「ちょっと待て! カウントダウンはどうなった? あれを完全に消去しろ!」
覚えていたかとサーシャは内心舌打ち。
「三つの条件を全部満たしたら消去してあげるわ。正直なところ、あのソフトは使い道がないの。ちょっと脅迫するにしては大きすぎる爆弾なのよ」
「そうなんだよ! 高杉の奴は何を考えてるんだ! なぁ?」
サーシャに同意を求めてくるが軽くスルー。
「それよりはこうして協力し合った方がいいと思わない? あなたの会社は立ち直る。父の会社は儲かる。宗作は願いが叶う。妹は想い人が幸せになる。私は解放される。Win-Win-Win-Win-Win。これがベスト」
暴力の危険に晒されている今、下手に脅迫して追い詰めるよりは明るい未来を見せて懐柔する方が安全だ。
サーシャはとにかく無事に家へ帰りたかった。解放された後はまた脅迫するなりすっとぼけるなりすればいい。
「そうか……そうか……よし、よし! その条件でいいぞ!」
「賢明な判断ね。じゃあ、さっさと車を出して私を家まで送って頂戴」
ようやく事態は終息に向かうのかとサーシャは胸をなで下ろす。
宗作の罠は当初のドゥヴグラーヴィ作戦で解除していた。
盗み出したノートパソコンは状況に応じていろいろな使い道があったけれど、何にせよ最終段階で必要だった。宗作を説得して自らの手でソフトを消去させるまでがドゥヴグラーヴィ作戦なのだ。
サーシャはこの最終段階だけはみもろ台へ帰ってから実行するつもりでいる。本人の踏ん切りのためにも宗作自身がケリを付けないといけない。
宗作がこだわるページを榎本に削除させる段階でドゥヴグラーヴィ作戦は頓挫したけれど、新たなオデット作戦によってどうにか達成の道筋を付けることができた。
そして差し迫った目標であるサーシャ自身の榎本からの解放も平和裡に成し遂げられそうだ。暴力を振われずに済んでサーシャは心底ほっとする。
しかし榎本は激しく首を横に振った。
「い、いや、僕のオフィスで今すぐ話を詰めよう。もうすぐそこなんだ」
車を急発進させる榎本。コンビニの駐車場から飛び出すと、際どいタイミングで車と車の間に割り込んだ。
「え? 嫌よ。早く帰して頂戴!」
「うるさいっ! 今この場では僕の方が有利な立場だということを忘れるな!」
榎本がコートの下から出した回転式拳銃をサーシャの脇腹に押し付けてくる。弾を発射できるのか疑わしいくらいの安っぽい作りが、かえってこの金属の塊が本物であることを物語っていた。エアガンの類いならそれなりに有名な銃をモデルにするはず。
今サーシャに歯向かったら全てが無に帰すと分からないのだろうか? 何でも自分の都合のいいように考える男だから、もう全部がうまく行った気になっている?
「ちょっと待ちなさいってば。私を家へ帰すのが条件だって言っているでしょ? この話を白紙にしたいの!」
「今さら話を覆すなんて許さないよ。何だったらお前を人質にしてお前らの父親に言うことを聞かせてやる!」
「脅迫されたからといって融資するわけないでしょ? あくまで穏当なビジネスとして話は進めないといけないの。それくらい分からないの?」
「うるさいうるさいうるさい! 僕に指図するな! 僕は指図されるのが大嫌いなんだ!」
サーシャの思惑通りに事態は推移してくれなかった。
だけれどまだサーシャの想定内。このまま榎本のオフィスでそれらしく話をまとめればいいだけだ。ついでに宗作がこだわるページとそのデータの消去を見届けよう。
無事に家まで逃げおおせたら、榎本なんて好きなように料理してやる。
まだまだ大丈夫だとサーシャは自分に言い聞かせた。
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