三話 不審な男 (文人)

 紅茶を一口飲んだ後、サーシャが口を開く。


「で? 何か面白い話はないの、文人?」


 ここでうかつなことを言えば面倒な事態になると、文人には分かっていた。


「特に? 俺の管轄は平和なもんさ。懸案だった連続ひったくり事件は、無敵のチェスノコワ姉妹が解決してくれたしな」

「別に無敵じゃないけれどね。それでも何かありそうだわ。今、一瞬目を逸らしかけたもの」


 文人は正直すぎる自分に内心舌打ちをする。面倒な事態の始まりだ。

 確かにひったくり事件を解決してくれたのは表彰もののお手柄だが、毎回そううまく行くわけではない。逃げた飼い猫ごときを探すのに、町中を駆け巡らされるなんてのはしょっちゅうだ。引きこもりのサーシャは人使いが極端に荒い。


「別に無敵のチェスノコワ姉妹様のお手を煩わせるような案件なんてないっての。お前は家で静かに紅茶を飲んでればいいから」

「ねぇ、私は文人の役に立ちたいのよ……」


 そうささやいたサーシャが、クッキーを取ろうとした文人の手をそっと両手で包みこんだ。柔らかく、温かい感触にどきりとした直後、文人は不用意に手を出した自分のうかつさに顔をしかめる。しかしもう手遅れ。サーシャのロイヤルブルーの瞳が妖しく光った。


「何かあった?」


 リータが身を乗り出してサーシャに聞く。


「電器店があるでしょ? ジョーヒン電器」

「あるね。一番近いとこ」

「あそこのゲーム売場で、小学生の男の子がおっさんに声をかけられたわ。『俺んちでゲームしない?』ってね。声かけ案件って奴」


 文人はいらいらと貧乏揺すりをする。サーシャの奴はこうやって『読心』でもって他人の胸の内を盗み見ては、自分の暇つぶしのネタを探し出した。

 町の平和を守るため、なんてご立派な心掛けなんかではない。本当に、ただ、自分の暇を潰したいだけなのだ。口ではうまいことを言うが、こいつの本心なんて文人にはとうに知れている。


「へぇ、一緒に遊びたかっただけじゃないの?」


 純真すぎるリータが首を傾げた。こいつは常にサーシャの言いなりで、火の中にだって平気で飛び込んでいくから要注意だ。首に縄を付けておくのに毎回苦労させられた。


「違うわ。そうやって自分の部屋に誘い込んで、イタズラする気でいるのよ。性的な意味で。下手したら監禁なんだから」

「性的なの? でも、男の子だよ、声かけられたの?」


 リータが反対方向に首を傾げる。


「分かってないわね。世の中にはいろんなヘンタイがいるの。小さな男の子に性的興奮を覚えるおっさんのヘンタイだってゴロゴロいるんだから。ヘンタイは嫌いでしょ、リータ?」

「うん、小さい頃によく声をかけられたよ」


 そして毎回相手のキンタマを潰したのだ。格闘術の初歩に、金的があるらしい。


「じゃあ、今回の案件が、由々しき事態だっていうのも分かるはずよ? 許しがたいと思わない?」

「あのな、サーシャ。この件はもう終わってるんだ。ちゃんと本人からも話を聞いてるしな」

「それは分かっているわ。男の名前は高杉宗作たかすぎ そうさく。二十九才。半年前に会社を辞めて都会から実家のあるみもろ台に戻ってきた。職探しはしていない。つまりニート」

「あのなぁ、そうやって何でもかんでも人の記憶を読み取るなよ」


 机に突っ伏してしまう文人。


「何でもかんでもってわけじゃないわ。あなたが書類を書いているところを映像として見ただけよ。電器店での聞き込みで分かったのは……初めて来店したのは半年前で、この時はゲーム機本体とソフトを買った。会社を辞めてすぐね。しばらく経ってから頻繁に姿を見せるようになり、ゲームコーナーの試遊機で子供と遊んだ。店員とも何度か話をしているけれど、ゲームにやたら詳しいらしいわね」

「ゲームオタクのニートなの?」


 リータがサーシャに問いかける。


「そうよ。しかも、本人の風体がロクでもなくて、髪はぼさぼさ、ヒゲぼうぼう、着ているのはぴちぴちのジャージ。会社を辞めてから自堕落な生活をしているから、ぶくぶく太ってしまったのよ」

「ロクでもないね」

「なんで彼の風貌まで分かるんだよ?」

「そいつの家まで行って事情聴取したのは文人じゃない。その時の記憶をバッチリキャッチしたのよ」


 文人の問いに当たり前のように答えるサーシャ。彼女の前では文人のプライバシーなんてないに等しかった。


「いくら見た目が怪しくても要注意人物ってほどじゃないぞ? 子供に声をかけたのだって、一緒に遊んでいると楽しいからついってだけだしな」

「本人はそう言ったわね。でもそんなの、口先だけじゃ何とでも言えるじゃない。相変わらずヘンタイの可能性は捨てきれないわ」

「杞憂だよ杞憂。家に閉じこもりきりの暇人の妄想なんかに付き合ってられるか」


 こうやって突き放さないと、このお嬢様はどこまでもつけ上がった。


「随分な言い方ね。あの男の様子を文人の記憶から観察したけれど、顔色や顔つきからして健康を害しているようには見えなかったわ。心身ともに健康。ただしデブ」

「デブは余計だけどな」

「でも再就職はしていないのよ。半年間も自宅に引きこもっている」

「ずっと忙しくて休みがなかったから、しばらくのんびりしたいって言ってたろ」

「ただのんびりしているだけかしら? 文人に今は何をしているかと聞かれた時、ちょっと間があったでしょ? 口を開きかけてまた閉じた。正直に答えかけて危うく思い留まったのよ」

「よく見てるな?」


 文人は特に不審を感じなかったのだが。


「逆に向こうの不自然な態度に違和感を覚えなかった文人に驚きよ。しょせんは無能なお巡りさんということかしら?」

「お前、いちいち一言多いんだよ」

「あの男は今、何かをしているのよ。あるいは計画している」


 サーシャが自分の言葉に深くうなずく。まるで彼が悪だくみでもしているみたいな言い方だ。


「別に再就職はしてなくてもいろいろとやることはあるんじゃないか? 資格の勉強だとかさ」

「文人はあいつに会社を辞めた経緯を聞いたわ」


 文人の言うことを平気で無視して自分の話を続けるサーシャ。


「ああ、人間関係だって言ってたな。詳しくは言いたがらなかったけど」

「詳しく聞き込まなかったのがいかにも無能な文人よね?」

「そういう言い方すんなっての。最近はいろいろとうるさいんだよ」


 いくら警察だからって、直接関係のないところまで根掘り葉掘り聞き込まない。最近は個人情報だとかを主張する市民も多いのだ。


「その人間関係の問題は、相当なわだかまりとなっているようね。聞かれた時、顔が強ばって視線を斜め下にやった。そして腕組みをした。ああいう時に腕組みをするのは相手に対して心を閉ざしたということなの。問題を掘り下げられるのを警戒したのね」

「そうなのか?」

「そうなのか? 文人の無能ぶりにめまいがしそうよ。あの男は会社を辞める原因となった問題を半年間も引きずっている。そういうマイナスの感情は、一人で引きこもっているとどんどん深みにはまっていくものなの」

「まぁ、引きこもりのサーシャが言うならそうなんだろうな」


 ちょっと皮肉を言ってみたが、サーシャはスルーしてくる。


「ふさぎ込んでいる人間が陥りやすい心理に一般化というものがあるのよ。限られた体験を広く一般的なものと捉えてしまうの。上司に遅刻を怒られただけで、自分は世の中の役に立てない無能なお巡りさんに違いないって思い込んだりね」

「別にそこまで思わないけどな」

「普通はね。あの男の場合、辞めた会社に対する強いわだかまりを、広く社会全体に適用している可能性が高いわ。今のあいつは社会全体に不信感を持っている」

「もっともらしいな」


 文人は腕組みをしてサーシャが思考を暴走させていないか警戒した。


「ここに至って、あいつは電器店に出没するようになったのよ」

「電器店? いきなりそこにつながるのか?」

「そもそもなぜ田舎の電器店なのか? ここからなら都会の電気街までは電車で往復千円くらいよ。ゲーム機は買えるんだし電車賃くらいのお金はあるの。電気街なら品揃えも豊富で中古も買えるわ。なのに、あの男は田舎の電器店にやってきた。なぜ?」


 サーシャが顔を近付けてくるが、文人にはさっぱり分からない。


「さあ?」

「さあ? 無能らしい恐るべき思考停止だわ。じゃあ教えてあげる。都会の電気街にいるのは大人ばかりで、子供はあんまりいないからよ。一方田舎にあるあの電器店は、タダで遊べる試遊機目当てに地元の子供が入り浸っている。つまり子供目当てだから、あの電器店に現われたのよ」


 自信たっぷりに胸を張った。


「都会の電気街の様子を、なんで引きこもりのサーシャが知ってるんだよ?」

「前に経済誌に写真が載っていたの。私の優れた頭脳は、一度得た情報はいつでもすぐに引っ張り出せるようになっているの。知っているでしょ、文人?」

「そ、そうか……」


 自分で優れた頭脳などと言うところは気に入らないが、サーシャのその頭脳に今まで何度も助けられている文人は何も言い返せない。地元の電器店の様子にしても、近所のオバサンから話を聞いたことでもあるのだろう。


「あの男は、今まさに何かをしている。社会全体に不信感を抱いている。そして子どもを物色している」

「う、うん」


 サーシャの不安感を煽り立てるような言い方に、文人は少しずつ呑まれてきた。


「あの男は、子ども相手にナニカをしようと計画を練り続けているの。マイナスの情念に突き動かされるままにね」


 実に深刻な表情で文人に迫ってくる。


「ど、どんな計画だっていうんだよ?」

「それはまだ分からない。唯一確かなのは、あの男が子ども相手によからぬナニカを企んでいるヘンタイということだけ!」


 カッと目を見開いた。


「そうなんだ!」


 サーシャの長広舌を真に受けたリータが大きな声を出す。


「いやいやいや、全部お前の妄想だろ? かもしれない程度で捕まえたりはできないからな」

「そんなの分かっているわ。だから直接会って確かめるのよ。リータ、今から行ってきなさい?」

「はいよ」


 サーシャの命令を受けて、びしっと敬礼するリータ。


「ちょっと待てちょっと待てって。勝手なことすんなよ。頼むから大人しくしといてくれ」

「そういう軟弱な事なかれ主義には虫酸が走るわ! そんなんじゃ、凶悪犯罪を未然に防ぐなんてできないわよっ!」


 拳を握りしめてサーシャは力説するが、こいつに正義感なんてご立派なものはないと文人は知っている。


「よし、よし、わかった! じゃあリータ、俺と一緒に行動しろ。それとサーシャ、お前も来い」

「私? なんで私が?」


 威勢のよかったサーシャが急に弱気な態度になった。


「言い出しっぺだろうが。いっつもリータばかりこき使ってないで、たまには自分も動けよ」


 ここまで来たらこの話を利用してやろう。サーシャがずっと外へ出ないのを、文人は大きな問題だと考えていた。うまく口実を付ければ外へ連れ出せるかも……。


「イヤよ。肉体労働は頭の足りないお二人さんに任せることにしているの」

「え~、サーシャも行こうよ。外は気持ちいいよ?」


 リータも味方をしてくれた。この子も本当はサーシャと外で遊びたいのだ。


「断固拒否。外がいいだなんていうのは、体力バカの考えよ。押し付けないでちょうだい」


 ぷいっと横を向く。それでもここは食い下がらなければ。


「あのなサーシャ、何回も言ってるけど……」


 と、文人の腰にある無線が音を出した。同僚から交番に戻ってこいとのお達しだ。


「はぁ、戻らないと……。あ、サーシャ悪い、大丈夫か?」

「大丈夫よ。ちょっと響いただけ」


 こめかみを指で押していたサーシャだが、文人の通信が途絶えるとすぐに手を下ろした。彼女に電磁波は禁物だ。


「俺は戻るが、俺がいないとこで余計なことはするなよ、お前ら?」

「どうする、サーシャ?」

「私たちチェスノコワ姉妹が文人ごときの言うことを聞く理由なんてひとつもないわ。リータ、着替えてらっしゃい? 文人が消え次第、行動を開始するわよ」

「はいよ!」


 元気よくリータが部屋を出ていく。もはやチェスノコワ姉妹は止められない。相手の男に危険はなさそうだし、ここは好きなようにさせるしかないか。男に内心で謝りながら、文人は勤務先たる交番に一人戻った。

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