二話 サーシャは侵入する (サーシャ)
姉妹が身に付けているペンダントを合わせると、ロシアではポピュラーな図案である双頭の鷲が現われる。サーシャは今回の作戦を「双頭」――つまりロシア語で「ドゥヴグラーヴィ」と名付けた。
別に一人で実行する作戦なのだから名称は必須ではないのだけれど、自分を奮い立たせるためには明確な名前があった方がいいと思ったのだ。
さてドゥヴグラーヴィ作戦は第一段階たる外出及び宗作の誘導を完了した。続いて宗作が家を出たのを見計らい、彼の部屋に侵入する第二段階に進む。
喫茶店を出たサーシャはここからそう遠くない宗作の家を目指す。あいかわらず電磁波による頭痛に悩まされながら進んでいき、宗作の家の様子をうかがえる児童公園に到達する。
サーシャは普段静かな家の中にいるので、公園で遊ぶ小さい子供たちの声が耳障りで仕方がない。だけれどこの公園においてはサーシャこそ異物だ。ぐっと我慢して宗作の家のガレージを観察する。
宗作の自転車はまだガレージにあった。あの肥満体が歩いてみもろ台の反対側にあるチェスノコフ家に向かうはずもない。サーシャはいらいらしながら愚図な男の動向を注視する。
ようやく宗作が出てきた。ちゃんと手ぶらだ。のろのろと自転車にまたがるとサーシャの家がある北方向へと去った。
三分待ってからサーシャは公園を出る。そして宗作の家の前まで行ってインターホンを鳴らした。当たり前だがサーシャが他人の家を一人で訪問するのは生まれて初めてだ。
いつもリータと『接続』しているので段取りは分かっているつもりだけれど、実際に一人でやってみると予想以上に緊張する。心臓がばくばくして冷や汗がだらだらと流れた。ましてやサーシャがこれからするのは窃盗なのだ。
『はーい。リータさん?』
宗作の母の声。どうやらうまくリータと勘違いしてくれたようだ。
「はい、おはようこざいます。あの~、宗作の部屋に忘れ物しちゃったんで、取りに入っていいですか? あ、宗作は部屋に入っていいって言ってくれました」
サーシャとリータは声質も似ているけれど、リータはいつも甘えたような喋り方をした。サーシャはそれを真似てインターホンの向こうのおばさんに話しかける。
『そうなの? じゃあちょっと待ってね』
しばらくして宗作の母が玄関扉を開けた。
「どうぞ入って。タイミングが悪かったわね、宗作は今外出したところなのよ」
「そう言ってました。でも忘れ物を取ったらすぐに出ますね。友だちと約束があるんで」
リータらしく少し大げさなくらい身振り手振りを交えて話をする。
宗作の母はサーシャが側まで近寄ってもリータだと疑っていない様子。双子の姉がいるとは元々知らないだろうし、白人が身近にいない人なら細かな違いを把握できなくても仕方がない。
「じゃあ、二階へどうぞ。キッチンにいるから出る時に声をかけてね」
「ありがとう。そうしますね」
リータはそれなりに信頼されているようで、宗作の母はサーシャを置いて一階のキッチンへ向かった。
「あ、そういえば学校は?」
ふいに後ろから声をかけられる。
「テスト休みなんですよ」
聞かれたら答える用意はしておくけれど、自分からはぺらぺら喋らない。ウソをついて人を騙す時の鉄則だ。
そして宗作の部屋へ。カビなのか汗なのか垢なのかヘンな臭いがする。そもそも埃っぽい。
「それにこの電磁波……。Wi-Fiの電波を直接浴びるのはなかなかきついわね」
その電波を出している無線LANルータをパソコンラックの上に見付けたけれど、今は電源を切ってしまうわけにはいかない。すぐに使うことになるからだ。
電磁波による頭痛と生理的な嫌悪感から来る寒気をどうにかこらえながら、パソコンラックの下に置いてあるノートパソコンを引っ張り出す。
思った通り稼働しているノートパソコンの電磁波はものすごい。パソコンは間近に置かないと使えないところが特に厄介だ。
画面を見るとカウントダウンがあいかわらず続いている。まずはこれを止めないと。サーシャはキーボードにそっと触れた。
サーシャは『読心』を使うことで触れた人の意識にアクセスできるけれど、物体に向かってこの力を行使すれば、その物体に残った人間の意識を読み取ることができる。
お気に入りのティーカップを割った犯人が母であると、その破片に振れるだけで言い当てたり。
この能力をノートパソコンに対して行使しないといけない。だけれど電磁波の塊とも言えるパソコンに意識をつなぐのは勇気がいる。そもそも稼働している電化製品に『読心』を使った経験は数回程度。いずれの場合も電磁波が脳内に流入してきて酷く気分が悪くなった。
それでもやらなくては。全てはリータのために。
大きく深呼吸して覚悟を決めたサーシャは、ノートパソコンを相手に『読心』を使った。
どっと電磁波が流れ込んできて意識が遠のきかけた。どうにか堪えて意識を集中するとノートパソコンを操作する宗作の目から見た映像が頭に浮かぶ。パソコンに残った宗作の意識にうまくアクセスできたようだ。ここからパソコンの操作をする彼の記憶を辿っていけばいい。
宗作はこのパソコンで膨大な量のプログラムを書いていた。その書いた内容を読み取ることはできるけれど情報の量が多すぎる。しかも何度も部分的に修正しながらプログラムを作成しているので、最終的にどの状態が正しいのか掴み取るのが難しい。
今欲しいのは宗作が罠として作ったソフトを操作するコマンドの情報。サーシャは意識を集中することで情報の海の中から必要な情報のみをピックアップできる。だけれどパソコンから流入してくる電磁波のせいで意識が乱れてしまう。このままでは意識が情報に呑み込まれて収拾が付かなくなる。
脳がうまく回ってくれない。宗作の視覚情報が次々流れていくけれど早すぎて把握しきれなくなってきた。一度能力を解除するか? 迷ったサーシャだがこのまま踏ん張ると決める。情報の奔流に惑わされずにただ欲しい情報を念じ続けた。
アプリケーション名 babel++
genesis_11 -time [数字]
カウントダウンの時間指定。(デフォルト二四時間)
genesis_11 -all
ポイント全消去のカウントダウン開始。
genesis_11 -number [数字」 [数字]
会員番号の範囲を指定して消去のカウントダウン開始。
genesis_11 -view
カウントダウンのリアルタイム表示。
genesis_11 -stop
カウントダウンの一時停止。
genesis_11 -restart
カウントダウンの再開。
genesis_11 -reset
カウントダウンの時間のリセット。
genesis_11 -cancel
アプリケーションの処理をキャンセル。
genesis_11 -salvation
アプリケーションの処理をキャンセルし、babel++の痕跡を全消去。
『ぷらぷら』のサーバの管理者アカウント
FC1983
同・パスワード
HVC-001_14800
頭の中に欲しい情報がずらりと並んだ。サーシャは一度憶えたことはまず忘れない。これでよしと胸をなで下ろし、『読心』を解除した。パソコンから直接脳へ流れ込んできていた電磁波が遮断される。
「随分と単純なコマンドなのね。決死の思いでパソコンなんかを『読心』した甲斐がいまいちないわ」
ノートパソコンから手を離しても指先が小さく震え続けるサーシャは、わざと軽口を叩いて自分を落ち着かせようとした。
安心するのはまだ早い。ここでやることはまだ残っている。サーシャはキーボードを叩いてパソコンを操作していく。普段パソコンを触らないサーシャなので、キーボードのキー配列は覚えているもののキー操作には時間がかかる。
そして『ぷらぷら』のサーバに接続すると、カウントダウンを一時停止させた。カウントダウンの表示を確認すると確かに止まったまま動かない。
これでようやくこの臭い部屋から出ていける。ノートパソコンの電源を落とすと持ってきていたリュックの中に放り込んだ。電源ケーブルも忘れずに。
このリュックには帽子以上に手厚く電磁シールド材が貼ってあり、蓋をしてしまえば中に入れた電化製品の電磁波は大分抑えられた。これならノートパソコンの電源を入れた状態であっても持ち運びできるだろう。
そしてキッチンにいる宗作の母に声をかける。向こうはサーシャの顔を見ると驚いたような顔をした。
「あれ? 随分顔色が悪いわね、リータさん。大丈夫?」
「そうですか? 何ともないですよ。じゃあ、急いで友だちのところへ行かなくっちゃ。ありがとう!」
適当に誤魔化して家を出た。
これでドゥヴグラーヴィ作戦の第二段階は完遂だ。
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