第38話 エヴァンの願い

「……ふっ、くしゅん……!」


 なぜか寒気を感じて目が覚めると、横からエヴァンの声が聞こえてきた。


「ごめんね、途中で雨に降られちゃったんだ。どこかに拭くものがあるといいんだけど、慣れない場所だから分からなくて」


(雨に降られた? 慣れない場所……?)


 自分の部屋で寝ていたはずなのに、なぜそんな言葉が出てくるのだろう。しかし、たしかに体は濡れているし、部屋の中も暗すぎる。


 ぼんやりする頭を押さえながらベッドから起き上がると、あり得ない光景にアイリスは目を疑った。


「……私の部屋じゃないわ。ねえ、エヴァン、ここはどこなの? 一体何があったの?」


 不安げな目で見つめるアイリスに、エヴァンが穏やかに笑いかける。


「ここは前にセシリアから教えてもらった空き屋敷だよ」

「セシリア様から……?」

「今になってやっと分かったよ。結局、セシリアのやろうとしていたことが正しかったんだ」


 エヴァンが自嘲するように笑う。

 その笑い方がいつものエヴァンとは違っていて、アイリスは背筋が寒くなるのを感じた。


「愛する人が自分を見てくれないなら、どんな手を使ってでも振り向かせるしかない。自分を愛してくれないなら、無理やりにでも愛させればいい」


 エヴァンの声にも瞳にも、いつものような優しさはない。

 ひどく思い詰めたような翳りがにじんでいる。


 エヴァンの冷えた指先がアイリスの頬を、つうとなぞるように撫でた。


「だから、皇太子との婚約が成立する前に、アイリスを僕のものにするよ。そうなれば、皇太子妃になんてなれないだろう?」


 冗談でしょう、なんて聞けない雰囲気だった。

 それだけエヴァンの表情は切実で、今にも壊れそうな脆さが感じられた。


 アイリスは今になってやっと気がついた。

 これまで彼が自分に向けてきた愛情は家族に対するものなどではなく、ひとりの女性に対するものだったのだと。


 そのことに気づいた瞬間、自分がしてきたことの罪深さを自覚して、アイリスはとてつもない後悔に襲われた。


 クリフとの約束を叶えたいがためにエヴァンを利用し、自分への想いに気づかないまま彼を特別扱いし、彼からの溺愛を享受していた。挙げ句に、記憶を取り戻したイーサンとの婚約内定を嬉々として報告してお祝いまでさせてしまった。


 自分の鈍感さのせいで、彼を弄び、傷つけてしまったのだ。


「エヴァン……ごめんなさい」


 頬に触れるエヴァンの指先を握りしめると、自然と涙があふれ出た。


 すると突然エヴァンがアイリスを押し倒し、その細い手首に枷をするように両手で押さえ込んだ。まるで、ぎりぎりのところで形を保っていた何かが決壊してしまったかのように。


「どうして……どうしてあの日、僕に近づいたんだ? 君と出会わなければ、君と兄妹にならなければ、こんなに苦しい思いをしなくてよかったのに……」


 苦痛にうめくような声がアイリスの胸を鋭く突き刺す。


「ごめんなさい……本当にごめんなさい……」


 もはやこうして何度も謝ることしかできない。

 いくら謝っても決して許されることではないけれど、それ以外のことなど、言えるはずもなかった。


 しかし、「ごめんなさい」の言葉を繰り返すたびに、エヴァンの眼差しはいっそう悲壮なものになっていった。


「……もうやめてくれ! 君に謝ってほしいわけじゃないんだ! ただ、僕だけのアイリスでいてほしいだけなのに……!」


 窓を叩きつける雨の音に煽られるかのように、エヴァンの美しい顔がさらに近づいた。

 

「君にも僕を愛してほしい。兄ではなく、ひとりの男して愛してほしいんだ。どうせ血は繋がってないんだから、妹から妻になったところで大した問題じゃない。紙切れ一枚で済むことだ。だから、僕を愛してよ」


 エヴァンの顔が横に逸れ、頬に柔らかな唇が音を立てて押し当てられる。


 きっとひどく怒っていると思ったのに、壊れ物に触れるかのような優しい口づけだった。エヴァンのキスは頬から少しずつ移動して、最後にアイリスの唇を覆うようにして触れた。


「……魔法で抵抗すればよかったのに」


 たしかに、手足で抵抗できなくても、魔法を使えばエヴァンひとり吹き飛ばすくらい、なんてことなかったかもしれない。けれど──。


「……そんなことしない。できない。私にとって、あなたは大事な家族だから……。あなたを巻き込んで本当にごめんなさい……傷つけるつもりなんて、なかったの……」


 エヴァンがアイリスの腕から手を離し、アイリスに抱きつくようにしてうずくまった。


「謝らないでって言ったじゃないか! 僕だって本当はこんなことしたくないんだ! アイリスを心から愛しているから……!」


 アイリスの濡れたドレスに、エヴァンの涙がぽたぽたと落ちる。アイリスは、震えるエヴァンの肩をそっと抱きしめた。


「あなたは何も悪くない。全部、私が悪かったのよ」


 アイリスの腕の中で、エヴァンが苦しげに嗚咽を漏らす。そうしてひとしきり泣いたあと、エヴァンが静かに口を開いた。


「……来世でまた僕と出会ってくれる? 僕を兄でも弟でもなく、ひとりの男として見てくれる? そう約束してくれたら、今世は兄妹でも我慢する。君なら魔法で、僕の記憶を書き換えられるだろう……?」

「そんな……あなたの記憶を書き換えるなんて……」

「お願いだよ。君と結ばれない世界で、僕は正気を保っていられる自信がない。だから、どうか──」


 こんなにも悲痛な願いを拒否することなどできなかった。


「……分かった」


 アイリスがエヴァンの頭に触れ、淡い紫色をした魔力を放つ。


「……約束するわ。来世でもまたあなたに出会う。そして今度はちゃんとひとりの男性としてあなたを見るわ」


 そうして、アイリスは魔法をかけた。


 エヴァンが今日の出来事もアイリスへの恋愛感情も忘れるよう、アイリスを血の繋がった実の妹だと思うよう、記憶を書き換える魔法を──。


 やがて魔力の光が収束すると、エヴァンが驚いたように顔を上げた。


「アイリス……? ずぶ濡れじゃないか。それにここはどこなんだ? 僕たちは何をして……」


 アイリスを見つめるガーネットの瞳に、さっきまでの暗い翳りはない。出会ったばかりの頃のような、綺麗に澄んだ紅色だった。


 アイリスがエヴァンに優しく微笑みかける。


「……遠出をして遊んでいたら雨に降られたから、ここで雨宿りをさせてもらっていたのよ」

「雨宿り?」


 エヴァンが怪訝そうに首を傾げる。


「そう、雨宿り。ここに来た理由は、それだけよ」


 エヴァンの濡れた銀色の髪を、アイリスは愛おしむようにそっと撫でた。

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