第16話 決断

 街から公爵邸に帰ってきたあと、アイリスはひとり自室に閉じこもった。


 ベッドの上で膝を抱え、深くうつむいて泣きじゃくる。


 涙がぼろぼろと止めどなく流れて服を濡らすが、そんなことを気にする余裕はない。


(……クリフは、何も覚えていなかった──)


 早くクリフに会いたい。

 手を取り合って再会を喜びたい。

 前世から変わらず愛していると伝えたい。


 そんな期待を胸に、幾度となく転生を繰り返し、クリフだけを追い求めていたのに。


 アリアの数百年間の想いは、ほんのひとときの邂逅で粉々に打ち砕かれてしまった。


(この900年の転生はなんだったの……? クリフが覚えていないんだったら、何の意味もない……)


 すべてが虚しく、みじめさだけが胸に広がっていく。


 こんなことなら短命の呪いを解いてもらうのではなかった。

 クリフがアリアのことを忘れているのに、長生きしたところで無駄なだけだ。

 今すぐにでも死んで、もう二度と転生などしたくないというのに。


 涙でぐちゃぐちゃになった顔を、袖でごしごしと拭っていると、控えめなノックの音が聞こえてきた。


「……エヴァン?」

「アイリス、ミルクティーを持ってきたよ。僕が作ったんだ。あんまり美味しくないかもしれないけど、一緒に飲もう?」



◇◇◇



 ベッドの上に座ったまま、エヴァンが作ってきてくれたミルクティーを飲む。

 アイリスの好きな茶葉を使ってくれていて、お茶とミルクの優しい香りがぼろぼろになっていたアイリスの心を癒してくれた。


「美味しい?」

「……うん、美味しいよ」

「よかった」


 ベッドの横の椅子に腰かけたエヴァンが、安心したように微笑む。


「……今日、辛かったよね。大丈夫?」

「そうね……大丈夫と言いたいところだけど、すごく……ダメみたい」


 またクリフの──いや、イーサンの言葉を思い出して、収まっていた涙がじわりと滲む。


 エヴァンの前ではしっかりしようと思ったのに、ショックが大き過ぎて、とても普段のようには取り繕えなかった。


 アイリスの弱々しい姿を見て、エヴァンが腹立たしそうに眉間にしわを寄せる。


「アイリスが前世からずっと想い続けてたのに、向こうは何ひとつ覚えていないなんて。酷い奴だ。アイリスをこんなに傷つけて許せない」


 エヴァンが憎々しげな声でイーサンを咎める言葉を口にする。皇太子相手に不敬ではあるが、それだけアイリスのことを思いやってくれているのだろう。


 それに、本来優しい彼がこれほど怒るなんて、やはり誰が見ても痛ましい状況なのだ。


「ねえ、アイリス……もういいんじゃないかな」


 エヴァンがまた優しい声に戻って、アイリスを見つめる。


「前世のことも、クリフとの思い出も忘れたほうがいいと思う。アイリスはもうアリアじゃない。この人生から新しく生き直すんだよ」


 エヴァンの落ち着いた声が、アイリスの砕けた心の中に沁み入ってくる。


「記憶のない奴にいつまでも縋ったって、アイリスの人生が無駄になるだけだ。アイリスはクリフがいなくても幸せに生きられる。せっかく平和な時代に生まれて、古代竜を封印する使命だってないんだから、新しい人生を楽しむべきだよ」


 エヴァンの言葉が、自棄になりそうだったアイリスの心に寄り添って、温かく包み込んでくれる。


「前世のことを忘れたって、誰も責める人はいないよ」


 エヴァンが小さく丸まっていたアイリスの肩をそっと抱いた。


(……そうしたほうがいいのかな)


 エヴァンの言うとおり、もう前世のことも、クリフとの約束も忘れたほうがいいのだろうか。


 忘れたくないという気持ちはあるが、これは単に数百年分の思いが無意味になるのを惜しんでいるだけなのかもしれない。


(……向こうが覚えていないなら仕方ないわよね)


 しつこく迫り続けたところで、嫌な思いをさせてしまうだけだろう。


(……今こそ、一歩踏み出すときなのかもしれない)


 アイリスがエヴァンに寄りかかるようにして、彼の肩に頭を預けた。


「──私、もう前世のことは忘れることにする」


 すぐには無理かもしれないが、もうイーサン皇太子を追いかけることはやめよう。


 辛い決断を下したアイリスを、エヴァンが慈しむように抱き寄せていたわってくれた。


「偉いよ、アイリス。今はまだ辛くても大丈夫。僕が幸せにしてあげるからね」


 どこまでも優しい兄の温もりに、アイリスはそっと目を閉じた。



◇◇◇



 セシリアを屋敷まで送り、皇宮へと戻ってきたイーサンは、自室の椅子に腰かけて、悩ましげに頭を抱えた。


 今もなお、広場で泣かせてしまった少女のことが頭から離れない。


 彼女はなぜ、人違いだと聞いてあれほど悲しそうに泣いたのだろうか。


 クリフというのは、彼女にとってそれほど大切な人なのだろうか。


 クリフと自分は、近くで見ても間違えてしまうほど似た顔をしているのだろうか。


 気になって仕方がない。

 それに、「何度も」だとか「何百年も」だとかの言葉も何のことなのか意味が分からない。


(彼女のことが気になるのは、何もかも分からないことだらけだからだろうか……)


 自分にはセシリアという婚約者がいるから、他の令嬢のことを気にかけるのはよくない。

 今は勉学で忙しいし、他のことに頭を使っている暇はない。


 しかし……。


「──そういえば、泣かせてしまったことを謝っていなかったな」


 どうにも気になってしまうのは、そのせいかもしれない。

 きちんと謝れば、このもやもやとした気持ちもきっと晴れるだろう。


 謝りに行くならなるべく早めがいい。

 どれか調整できる予定はなかっただろうかと、イーサンは予定帳に目を通した。

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