第15話 歓喜と絶望
アイリスがぶつかった相手は、クリフ──イーサン皇太子だった。
こちらを見つめる青い瞳は知的に輝き、眩い金色の髪が風に揺れてきらめいている。
花祭りの日よりも落ち着いた装いだったが、仕立ての良い服を着ていて、高貴な雰囲気を漂わせていた。
いつかどこかのパーティーで会えないか、皇宮に出かけたら出くわせるだろうか、皇太子の外出予定を調べられないだろうか。
そんな風にあれこれ考えていたのに、まさか街の広場で偶然ぶつかるなんて。
アイリスは歓喜に震える胸を押さえて、前世の愛しい恋人を見つめた。
「クリフ……私よ、アリアよ!」
イーサンの瞳が驚きに見開かれ、アイリスの菫色の瞳と視線が絡み合う。
「花祭りの日はほとんど会話できなかったから、もう一度会って話したかったの。私、あのときは平民だったけど、クリフに会うために貴族になったのよ。凄いでしょう? でも、こんな風に街で偶然会えるなら、貴族になる必要なんてなかったかな。私たち、やっぱり運命で繋がってるのかも……なんて」
嬉しくて、気持ちが逸って、つい早口になってしまう。
話して確かめたいことがたくさんあるのに、想いばかりが先走って、何をどう言えばいいのか上手く考えられない。
けれど、これだけはしっかり伝えたかった。
「ねえ、クリフ。ずっとずっと、あなたに会いたかった……!」
溢れる愛おしさを込めて、クリフの、イーサンの瞳を熱く見つめる。
きっと彼も同じように、喜びの色をたたえた熱い眼差しを返し、「アリア、会いたかった!」と言ってくれるはず。
そう、期待していたのに。
イーサン皇太子は困ったように眉を寄せ、戸惑いの滲む声で、アイリスの期待に背く答えを寄越した。
「──アリア嬢。申し訳ないが人違いではないか? 花祭りで会ったのは今思い出したが、あのときも君は私をクリフと呼んでいたな。だが、私の名前はイーサンだ。それに貴族になったというのは本当の話なのか? 私の知る限り、アリアという名前の貴族令嬢はいないはずだが……」
ただただ困惑と疑念しか感じられない態度と声音。
前世のことも、アリアのことも、まるで記憶にないイーサンの様子を見て、アイリスは心臓が嫌な音を立てるのを感じた。
「……もしかして、私のこと……覚えてないの……?」
手と足が、寒くもないのに勝手に震え出す。
喉の奥が痛くて熱い。
「覚えて、ないの……?」
揺れる視界の中で輪郭がぼやけていくイーサンに震える声で尋ねると、彼がハッと息をのむ音が聞こえた。
「君……泣いているのか?」
アイリスの菫色の瞳から、大粒の涙がぽろぽろとこぼれていく。
「……だって、あなたが私のこと覚えてないから……何度も何度も……何百年も待ってたのに……!」
嗚咽まじりの声をぶつけると、誰かが駆けつける足音が聞こえてきた。
「アイリス! 大丈夫か!?」
「……アイリス?」
エヴァンの呼び声を聞いたイーサンが、不思議そうに首を傾げる。
この子は「アリア」と名乗っていたはずだが、と考えていると、やって来た同年代の少年がアイリスと呼んだ少女の肩を抱いて引き寄せた。そして、険しい表情でイーサンと目を合わせる。
「……イーサン皇太子殿下とお見受けいたします。このような格好で恐れ入りますが、フィンドレイ公爵家のエヴァンと申します」
「ああ、フィンドレイ公爵家の……。では、この子は最近養女になったというアイリス嬢か」
「ええ、そうですが──」
イーサンの問いかけにエヴァンが答える。
しかし、その口調には明らかな不快感が滲んでいた。
そのうえ、敵意を隠そうともせずに紅い瞳でイーサンを睨みつける。
「あなたがアイリスを泣かせたんですか?」
強く責めるような言い方に、イーサンが眉根を寄せる。
たしかに彼女が泣いてしまったのは自分との会話が原因のようだが、こちらだってよく知らない令嬢に人違いとしか思えない声かけをされ、突然泣き出されて困惑している。
イーサンも憮然とした態度で見つめ返す。
「そのようだが、なぜ泣き出したのか理由が分からない。私をクリフという人と間違えているようだったから、私はイーサンで、クリフではないと言っただけなのだが」
そう答えると、エヴァンは「……へぇ」と言って、なぜか愉快そうな笑みを浮かべた。
正直、いくら公爵家の嫡男とはいえ、皇太子への態度としては無礼極まりないが、イーサンにも公爵令嬢を泣かせた負い目があるため強く出づらい。
もやもやした気持ちでいると、エヴァンがアイリスの髪を撫でて、優しく声をかけた。
「アイリス、悲しかったね。せっかく楽しい一日だったのに、こんなことになるなんて。今日はもう帰ろう」
止まらないアイリスの涙を指先で拭い、イーサンから顔を逸せる。
「では、失礼いたします。イーサン皇太子殿下」
そう言って、エヴァンはアイリスの肩を抱きながら、イーサンに背を向けて去っていった。
イーサンが二人の後ろ姿を見つめながら立ち尽くしていると、背後から靴音がして、「イーサン殿下……?」とか細い声が聞こえた。
「……ああ、セシリア嬢。待たせてすまなかった」
そうだ、つい頭から抜け落ちていたが、セシリアもいたのだった。
観劇に出かけたあと、広場の噴水を見たいというので一緒に訪れ、彼女にねだられて飲み物を買おうとしていたところだったのだ。
ただ、今となってはセシリアと二人で噴水を楽しむ気分にはなれなかった。
先ほどの公爵家の兄妹のことを思い出して、妙に胸の奥がざわついてしまう。
令嬢の涙を見たことで、思いのほか動揺しているようだった。たった二回、ほんの少し会っただけの令嬢なのに、彼女を泣かせてしまった自分が最低に思えて、後悔せずにいられない。
それに、彼女の兄である公爵令息のことも、なぜかひどく癪にさわって不快感が拭えなかった。
「……セシリア嬢、すまない」
「え?」
「どうも気分が優れないようだ。また別の日に埋め合わせをするから、今日の外出は終わりにしないか」
「……分かりました。殿下のお身体が一番ですから」
「ありがとう」
片目が見えないセシリアの手を取ってエスコートしながら、イーサンの脳裏には、辛そうに涙を流す公爵令嬢の姿が何度もよぎって離れなかった。
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