第10話 消せない不安
皇太子イーサンは自室でひとり、政治学の教師から出された課題に取り組んでいた。過去の治世で起こった政策上の問題点について考察して書類にまとめる課題だ。
調べ物のためにさまざまな書物を机に並べてページをめくっていると、ふといつもの妙な不安感に襲われて、イーサンは静かに溜め息をついた。
(ああ、まただ……)
心臓が一瞬で凍りつくような、嫌な感覚。
その後も胸がざわついて、冷や汗が止まらない。
なぜだか分からないが、自分が何かとてつもなく間違ったことをしているような焦りと不安感で押しつぶされそうになるのだ。
(この感覚は何なんだ……? 私は何かを間違えているのか……?)
なかなか消えてくれない感覚を、胸に手を当て抑えようとする。ゆっくりと深呼吸を繰り返しながら、ふと昨晩見た夢のことを思い出した。
知らない少年と少女の夢だった。
自分は少年の体に乗り移っていて、少女の顔はよく分からない。
晴れた夜に、どこかの塔の大きな窓の縁に二人並んで腰かけ、星でいっぱいの夜空を眺めていた。
『星の中にはいろんな星座があるんだって。それで、昔の神様や偉人たちの物語が秘められているんだって』
『へえ、面白いな』
『私たちも使命を果たしたら、星座になって遠い未来まで言い伝えられたりするかな?』
『どうだろう。きちんと使命を果たせたらなれるかもな』
『ふふ、そしたら私たち、空の上でずっと一緒にいられるね』
『そうだな。ずっと一緒だな』
『それなら、死ぬのも怖くないかもね』
『……そうだな』
使命だとか死ぬだとか、何の話をしているのか見当もつかない。夢だから、何か本で読んだ単語から連想されただけの何の意味もない会話かもしれない。
けれど、夢から覚めたあと、幸せな気持ちと苦しい気持ちが一緒になって押し寄せてきた。
しかも、この夢を見るのは昨晩一度きりではない。
ある時から、見知らぬ銀髪の少年と、亜麻色の髪の少女が何度も繰り返し夢に出てくるのだ。
(……そういえば、花祭りの日の夜から、二人の夢を見るようになった気がする)
あの日に何かあったのだろうか。
夢に出てきたような銀髪の少年や亜麻色の髪の少女に出会った覚えはないのだけれど。
さらに深く記憶を探ろうとしたところで、部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「イーサン殿下、セシリアでございます。お部屋に入ってもよろしいですか?」
「……セシリア嬢か。ああ、構わない」
イーサンが入室の許可を出すと、婚約者のセシリアが優美な微笑みを浮かべて入ってきた。片手には白薔薇の花束を抱えている。
「温室の薔薇が綺麗に咲きましたので、イーサン殿下にもお見せしたいと思いまして……。あ、お邪魔でしたか?」
イーサンが何か書き物をしている途中だったことに気づいて、セシリアが気遣わしげに眉を下げる。イーサンは首を横に振って、持っていたペンを片付けた。
「……いや、ちょうど詰まっていたところだった」
「それならよかったですわ」
「ところで、用件はそれだけだろうか?」
イーサンのやや素っ気ない言い方に、セシリアが少しだけ表情を曇らせる。しかし、すぐに穏やかに微笑んで、白くて細い首をわずかに傾けた。
「父から人気の歌劇のチケットをもらいましたの。それで、殿下と一緒に観に行けたらと思いまして、お誘いにまいりました」
「ああ、なるほど……」
「再来週の安息日の午前はたしかご予定が空いていらっしゃるのですよね? 一緒に観劇にお出かけくださいませんか?」
セシリアがにこりと微笑んで外出をねだる。
イーサンは彼女のぼんやりとした左目を一瞥すると、一呼吸置いてうなずいた。
「分かった。予定しておこう」
「ありがとうございます、イーサン殿下。楽しみにしておりますね」
セシリアが嬉しそうに顔を綻ばせる。
そして、これ以上邪魔しては悪いからと言って、白薔薇の花束を残したまま部屋を出ていった。
テーブルの上にぽつんと置かれた白薔薇を見やりながら、イーサンが小さく溜め息をつく。
最近婚約したばかりのセシリアは、何かと理由をつけてはイーサンと一緒に過ごしたがる。
今は彼女と過ごすより勉学に集中したかったが、婚約者をないがしろにもできないので、なるべく都合をつけるようにしていた。
あまり態度には出さないように気をつけてはいるが、聡い彼女にはどこかで感じ取られているかもしれない。
(煩わしいなどと思ってはいけない。親切にしなければ)
そう何度も自分に言い聞かせる。
なぜなら、セシリアはイーサンを庇ったせいで、左目の視力を無くしてしまったのだから。
(私を狙った暗殺に巻き込まれて、目に毒が入ってしまったせいで、彼女は光を半分失った。まだ若い女性の未来に影を落としてしまった……)
だから、自分はその責任を負って、彼女の未来を守らなくてはならない。婚約者として、ゆくゆくは伴侶として支えなければならない。
元々、彼女と婚約する可能性が一番高かったのだし、セシリアなら皇太子妃として申し分のない令嬢だ。だから、このまま彼女との婚約を受け入れて、徐々に気の置けない仲になっていけばいい。
イーサンは使用人を呼んで白薔薇を別室に飾るよう命じると、未だ消えずに残る不安感に無理やり蓋をして、政治学の課題へと戻ったのだった。
◇◇◇
その日の夜、アイリスは部屋のバルコニーの手すりに頬杖をついて、宝石箱のような星空を眺めていた。
名前のついた有名な星々を見つけながら、ぽつりと呟く。
「そういえば結局、私たちは星座になれなかったのよね」
たった二人きりで古代竜を封印するという偉業を成し遂げたのだから、もしかしたらアリアとクリフの星座ができるのではないかと思っていたが、転生したあとに調べてみたら、そんな星座は存在しなかった。
「夜空で永遠に一緒にいられるなんてロマンチックだと思って憧れてたのになぁ」
いじけて口を尖らせてみたが、まあいいかと思い直す。
「私もクリフも、ちゃんと生きてるものね。夜空じゃなくて、地上でずっと一緒にいればいいんだわ」
それからアイリスは夜空を凝視し、流れ星を見つけて願い事を唱えると、ふわぁとあくびをしながらふかふかのベッドへと潜り込んだのだった。
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