第37話 幸せの裏で

 惑いの森から皇宮の部屋に戻ってきたあと、アイリスとイーサンはまた固く抱きしめ合った。


「これからはずっと一緒だ」

「うん……でも」


 アイリスが心配そうに問いかける。


「セシリア様のことは大丈夫?」


 呪いのことに、婚約のこと。

 まだ解決すべき問題が残されていた。


「問題ない。彼女のことはこちらで対処する。正直、腹立たしくて仕方ないが、なるべく理性的に対応するよ」

「うん、分かった」


 それからもう一度キスを交わし、イーサンはアイリスを馬車まで送ると申し出た。


「えっ、でも二人でいるところを見られたら、また変な噂が……」

「どうせ本当のことなんだから、今さら気にしなくてもいいだろう」


 そう言って、イーサンがひょいとアイリスの身体を抱き上げる。


「ちょっと、まさかこの状態で馬車まで行く気……!?」

「回復したばかりなのに転移魔法を使って、惑いの森を走り回って、さすがに疲れただろう。そんなふらふらの足で歩かせられない」

「……うん、ありがとう」


 アイリスがイーサンの首に手を回す。

 懐かしく逞しい彼の腕に抱かれ、アイリスはゆっくりと馬車へと連れていかれた。



◇◇◇



「セシリア嬢、君との婚約は破棄する。いや、婚約していた事実すら無かったことにさせてもらう」


 皇宮に呼び出したセシリアに、イーサンが無情な宣告を下す。すると、セシリアが独り言のようにぽつりと呟いた。


「……アイリス様と婚約なさるのですか?」

「君に邪魔されなければ、最初からそうなる予定だった」


 イーサンが憎々しげな眼差しをセシリアに向ける。


「公女暗殺未遂と皇太子への呪詛。死刑になってもおかしくない重罪だ。しかし、すでに君が受けた罰を考慮して修道院送りにとどまった。嘆願してくれたアイリスに感謝するんだな」


 セシリアは詫びの言葉も、感謝の言葉も返すことなく、無言でうつむく。


「とにかく、今後二度とアイリスに手を出すな。もし何か企てでもしたら──」

「……狼の餌にでもするおつもりですか?」

「そんな残酷なことはしないが……彼女に手を出せば命以外のすべてを失うと思うんだな」

「……充分、残酷ですわ」


 セシリアが自嘲するようにゆっくりと両目を閉じる。


 イーサンに掛けた呪いが解かれた反動で、対価として捧げた左目だけでなく、残っていた右目の視力まで失った。


 ただ、ずっと好きだった人と結ばれたかっただけなのに。

 魔塔から譲ってもらった魔道具を使えば、イーサンの気持ちを自分だけに縛りつけられると思っていたのに。


「心に決めた人」の記憶を消して、セシリアと婚約するしかない状況にすれば、きっと自分だけを見て愛してくれるようになる。そう思っていたのに──。


「話は以上だ、失礼する」


 イーサンが席を立つ気配を感じ、セシリアが弾かれたように顔を上げる。


 しかし、見つめた先にイーサンを表すものは何も見えない。黄金の髪も、サファイアのような瞳も、美しく凛々しい顔も、彼の輪郭さえも。


(ああ……もう、愛する人の姿を目に映すことさえ叶わないのね……)


 部屋の扉が閉まる音が聞こえる。


 二度と光が宿ることのない銀色の瞳から、哀しみと後悔の涙が流れ落ちた。



◇◇◇



 イーサンとセシリアの婚約破棄は、まもなく公にも発表された。

 破棄の理由はつまびらかにはされなかったが、「重大な背信があった」という文言から、公女の事故はセシリアによる暗殺だったのではないかとの噂が自然と立ち、シンクレア侯爵家は権勢を失っていった。


 そして、セシリアの凋落ちょうらくと同時に、アイリスが新たな婚約者になるだろうという噂もまた大きくなり始めた。


 アイリスの安全のためもあり、皇室からは何も発表されることはなかったが、実際には数か月後にイーサンとアイリスの婚約を結ぶための準備が着々と進められていた。



◇◇◇



「ここまで来られたのも、あなたのおかげだと思っているわ。本当にありがとう、エヴァン」


 夕暮れ時、皇宮から帰ってきたアイリスが、いつものように部屋へとやって来たエヴァンに満面の笑顔で感謝を伝える。


 ここしばらく元気のなかったエヴァンは、やっと気力が戻ってきたのか、今日は優しい笑顔で返事をしてくれた。


「これで前世の約束が叶うね。おめでとう」


 いつもはお菓子と一緒に紅茶を飲んでお喋りするのが二人の習慣だったが、今日のエヴァンはお洒落なボトルを取り出してみせた。


「お祝いに乾杯しようよ。これ、チョコレートに合うんだって」

「へえ、そうなのね。でも、お酒はちょっと……」

「大丈夫だよ。これはワインじゃなくて葡萄ぶどうジュースだから」

「それなら私でも飲めるわね」

「うん、一緒に飲もう」


 エヴァンが二つ並べたグラスに葡萄ジュースを注ぐ。

 艶やかで深みのある紅色が、エヴァンのガーネットの瞳を思わせた。


「ふふ、この葡萄ジュース、エヴァンの瞳の色にそっくりで綺麗ね」

「……本当にそう思ってる?」

「え?」

「ううん、それじゃあ乾杯しようか」

「うん、乾杯!」


 そうしてアイリスは甘いチョコレートをひとくち食べて、エヴァンが注いでくれたジュースに口をつけた。


「エヴァンの言ったとおりね。このチョコとジュース、相性抜群だわ!」

「そうだろう? アイリスのために用意したものだから、たくさん召し上がれ」


 エヴァンのお祝いの気持ちが嬉しくて、チョコもジュースもどんどん口にしてしまう。


「あ、グラスが空になってたね。はい、どうぞ」

「ありがとう」


 二杯目のジュースをごくりと飲むと、どうしてか少し目蓋が重くなってきた気がした。


「うーん、疲れてるのかな。ちょっと眠くなってきたみたい」

「大丈夫? それじゃあベッドで横になるといいよ。後片付けは僕がしておくから」

「ありがとう、ごめんね」

「ううん、気にしなくていいよ」


 エヴァンの言葉に甘えて、アイリスがベッドで横になる。

 体中が怠くて、やっぱり疲れていたのかもしれない。

 イーサンとの婚約の準備で忙しくしていたから、きっとそのせいだろう。


(明日また話し合いがあるから、早く疲れを取らなくちゃ……)


 そんなことを思いながら、アイリスは深い眠りに落ちていった。


「ごめんね、アイリス」と言うエヴァンの声に気づくことなく。

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