第9話 お行儀の悪いひと時

 ある日の午後。家庭教師による授業を終えたアイリスは、自分の部屋でお菓子を食べていた。ハローズ菓子店で、ちゃんとお金を払って買ってきたチョコチップクッキーだ。


 菓子店のハンナとエミリーは、アイリスが今は公爵令嬢となったことにかなり驚いていたが、「幸せに暮らしているならよかった」と言って心から喜んでくれた。


 それから、花祭りの日にプレゼントしてもらった衣装のお礼だと言ってエミリーに流行りのドレスを贈ったのだが、感激したエミリーが泣き出してしまったので驚いた。


(ふふっ、でも可愛かったわね)


 ただ、好きな人との再会はどうだったかと尋ねられたときは少し困ってしまった。


 無視されて別の女の子と婚約されたとはさすがに気まずくて言えないので、とりあえず適当に誤魔化し、これからどんどん押していくつもりだと言ったら、二人から力いっぱい応援してもらえた。


(二人にいい報告をするためにも頑張らないとね!)


 そう決意しながらクッキーを頬張っていると、扉をノックする音が聞こえた。


「あ、エヴァン? 入っていいわよ」


 きっとエヴァンだろうと思って声をかけると、案の定エヴァンだった。


「よく僕が来たって分かったね」

「うん、気配でね」


 なんでもないように答えて、またクッキーをかじると、それを見たエヴァンが顔をしかめた。


「アイリス、ベッドでお菓子を食べるのは行儀が悪いよ」


 そう、アイリスはベッドで寝転がりながらお菓子を食べていたのだった。公爵令嬢としてはあるまじき振る舞いで、エヴァンが注意するのも当然だ。


 しかし、アイリスはばつが悪そうにする様子もなく、寝転がったままエヴァンを手招きした。


「たまにはいいじゃない。エヴァンもそんなこと言ってないで、ここで一緒にお菓子を食べましょうよ」

「ぼ、僕はいいよ」

「大丈夫よ、お母様たちには内緒にするから。ほら、チョコチップクッキー美味しいわよ!」


 アイリスが笑顔でチョコチップクッキーを見せると、美味しそうなお菓子に釣られたのか、たまには羽目を外したい誘惑にかられたのか、エヴァンはためらいながらもアイリスのほうにやって来て、おずおずとベッドの上に乗った。寝転がるのはさすがに抵抗があるらしく、上品に座ったままだ。


「ふふ、いらっしゃい、エヴァン。はい、クッキーをあげるわ」

「……ありがとう」


 エヴァンがアイリスからクッキーを受け取って、ぱくりとひとくちかじる。アイリスも一緒にクッキーを食べ、顔を合わせて同じタイミングで食べ終わると、エヴァンがはにかみながら微笑んだ。


「ね、ベッドでお菓子を食べるのって楽しいでしょう?」

「……うん、楽しい」


 それからエヴァンはベッドでのおやつに抵抗がなくなったのか、自らクッキーを取ってアイリスに手渡してくれた。


「こっちのクッキーも美味しそうだよ」

「ありがとう。いただきます」


 ベッドでの和やかなひと時を楽しんでいると、エヴァンがふいに枕元に視線を向けて、「あれ?」と呟いた。


「この紙は何?」

「あ、それは……」


 アイリスが制止するより先に、エヴァンが枕の下からはみ出ていた紙を引き抜いてしまった。


 白日の下にさらされてしまった紙の中央には、アイリスの筆跡で「イーサン・ダライアス・クロフォード」と書かれている。


「何これ……なんで皇太子殿下の名前が……?」


 訳が分からないといった様子で紙を見つめるエヴァンにアイリスが説明する。


「これはね、恋のおまじないなのよ」

「恋のおまじない……?」


 実はチョコチップクッキーを買いに行って、好きな人との恋を応援してもらったときに、エミリーからこのおまじないを教えてもらったのだ。


 ──名前を書いた紙を枕の下に入れて寝ると、その人と両思いになれるのよ!


 ……と教えられ、まさかそんなわけないだろうとは思ったものの、魔法使いである自分がやればもしかしたら効果があるかもしれないと思い、現在試しているところだった。


 そのことをエヴァンに説明すると、エヴァンはなぜか気分を害したように綺麗な眉間にしわを寄せた。


「……それって、アイリスがイーサン皇太子のことを好きってこと?」

「そういうことね」

「どうして? アイリスは皇太子と話したことなんてないはずだろう? 単に絵姿を見て憧れているってこと?」

「うーんと……一応、今年の花祭りの日に、私が花乙女として皇太子に花束を渡したことはあるんだけど」

「何それ、初耳なんだけど」


 エヴァンがまた顔をしかめさせた。


「まあ、会ったことがあるのはそれだけなんだけど、一目惚れなんかじゃなくて、私にとってはすごく大事な人で……」


 まだ色々分かっていないこともあるし、前世のあれこれを詳しくは言うことは憚られるが、とにかく外見に浮かれているだけの軽薄な想いではないのだと主張すると、エヴァンはますます不機嫌になってしまった。


 訳が分からなくて困惑していると、エヴァンは紙に書いてある皇太子の名前を見て、憎々しげに目をすがめさせた。


「皇太子には婚約者の令嬢がいるんだよ。それを知ってるの?」

「ええ、知ってるわ。それで調べようと思ってたんだけど……」


 そこで、エヴァンならその令嬢のことをいろいろ知っているかもしれないと気がつき、アイリスは起き上がってエヴァンの顔を覗き込んだ。


「ねえ、エヴァン。あなたならその令嬢のことを知ってるわよね?」


 急に目の前にアイリスの顔が現れて、エヴァンが驚いたようにのけぞる。


「……し、知ってるといえば知ってるけど」

「よかった! 私にも教えて! このクッキー全部あげるからお願い!」


 ハローズ菓子店のクッキーを賄賂にしてお願いすると、エヴァンは多少機嫌を直したのか「まあ、いいけど……」と言ってその場に座り直した。


「──皇太子の婚約者の名前は、アイリスも知ってるかもしれないけど、セシリア・シンクレア侯爵令嬢だ」

「うん」

「皇太子や僕と同い年で、元々将来の皇太子妃の最有力候補と言われてたんだ。とても賢くて、性格も容姿も優れていると評判だったから」

「そうなのね……。ちなみに見た目はどんな感じなの?」

「そうだな……身長は比較的高めで、少し大人びた雰囲気かも。ホワイトブロンドの髪に、瞳の色は銀色で、「白薔薇の妖精」とか言われてたっけ」

「白薔薇の妖精……」


 なんだかすごく清らかで美人そうだ。

 それほど綺麗で洗練された令嬢であれば、アリアのことは捨ててセシリア嬢と新たな人生を歩もうと思ってしまうかもしれない。


「……私、セシリア嬢に負けてるかも」


 少し落ち込んでしまい、沈んだ声で弱音を吐く。

 するとエヴァンが焦ったように言い直した。


「いや、「白薔薇の妖精」なんて言われてるけど、それは彼女と親しい人が言い始めただけだし、ちょっと大袈裟だと思うな。僕から見れば、セシリア嬢よりアイリスのほうがずっと可愛いよ……!」


 落ち込んだ妹を慰めようと一生懸命なのが伝わってきて、アイリスも思わず笑顔になる。


「もう、エヴァンってば本当にいい子なんだから!」

「……子供扱いしないでよね。僕のほうが年上なんだから」

「ええ、そうね。はい、お礼のクッキーをあげるわ」


 アイリスがナッツクッキーをつまんで、エヴァンの口もとに運ぶ。エヴァンは頬を染めて「ほら、また子供扱いしてる」と言いながらも、アイリスの手からそのままサクリと音を立ててクッキーをかじったのだった。

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