第11話 エヴァンの誕生日

 今日のフィンドレイ公爵邸は、朝から大忙しだった。

 大勢の使用人たちが行き交い、家中の窓という窓、床という床がせっせと磨き上げられ、エヴァンは部屋で身支度にかかりきりだった。


 いつもの五倍くらいの時間をかけて髪の毛の先からつま先まで念入りに仕立て上げられたエヴァンは、公爵夫妻から口々に褒めちぎられたあと、早足でアイリスの部屋へと向かった。


 今日はアイリスも普段よりお洒落に着飾らせられているらしく、女の子だからエヴァンよりも支度に時間がかかっている。


 部屋に入っても大丈夫だろうかと悩んでいると、また気配で分かったのか、部屋の中から「エヴァンでしょう。入っていいわよ」とアイリスが呼びかけてくれたので、エヴァンは扉を開けて部屋へと入った。


 ちょうど支度が終わったところらしく、数人のメイドたちが頭を下げて部屋から出ていく。


 アイリスはどんな風に仕上げてもらったのだろうか。気になってたまらないが、すぐそばに行くまで見ないようにしようとうつむき加減で近づいていく。


 すると、アイリスがおかしそうに笑う声が聞こえた。


「エヴァンったら、どうしてそんなに下を向いて歩いてるの?」

「ちょっとね。楽しみをとっておこうかと思って」

「何それ。ねえ、早く顔を上げてよ。エヴァンの晴れ姿をちゃんと見せてちょうだい」


 アイリスがねだってくるので仕方なく顔を上げる。

 すると、太陽のように眩しいアイリスの笑顔が視界に飛び込んできた。


「エヴァン、とっても素敵よ! 惚れぼれしちゃう」

「……本当? 変じゃない?」

「変なとこなんてひとつもないわ。よく似合ってる」

「ありがとう。アイリスも……すごく可愛いよ」


 アイリスは瞳の色に合わせた淡い紫色のドレスをまとい、彼女の艶やかな黒髪や白い肌がよく映えて見えた。


 お洒落しているアイリスはとても可愛らしいし、今着飾っているのは自分のためなのだと思うと、やけに嬉しい気持ちが込み上げてくる。


 どうしてこんなにいい気分になるのだろう、これが兄妹愛というものなのだろうかと思っていると、アイリスがこの世の幸せをすべて詰めたような愛らしい笑顔で、祝福の言葉を贈ってくれた。


「エヴァン、13歳のお誕生日おめでとう。今日という特別な日が、素晴らしいものになりますように」

「……ありがとう。嬉しいよ」


 アイリスからのお祝いの言葉に、エヴァンも笑顔でお礼を伝える。けれど、自分の語彙力のなさに、心底幻滅してしまった。


(……どうして僕はいつもこうなんだろう)


 アイリスから満面の笑顔で祝福してもらえて、心が震えるほど嬉しいし、今までの人生で最高の誕生日だと思えるほど幸せな気持ちで溢れている。なのに、いざ口に出して伝えようとすると、びっくりするほど簡単な言葉しか出てこないのだ。


(アイリスの前だと、特にそうだ)


 普通に話すこともできるけれど、彼女と一緒にいると、時々たまらなくどうにもならない感情が込み上げてきて、そうなると上手く話すことができなくなる。


(僕はアイリスより年上なのに、恥ずかしい……)


 もっと、ちゃんと彼女に気持ちを伝えたい。

 彼女と一緒にいると、とても楽しくて幸せなのだと分かってもらいたい。

 たまに面白くない気分になるときも、何が嫌なのかきちんと伝えられるようになりたい。


 そうすれば、きっとアイリスにとっても自分と過ごす時間がもっと心地よいものになるだろうから。


 ──アイリスのために、これから成長しなくてはならない。


 そう心に決める。


 すると、アイリスが小さな白い手を差し伸べて、朗らかな声でエヴァンの名前を呼んだ。


「エヴァン、ホールに行きましょう。みんな今日の主役を待っているわ」


 エヴァンがアイリスの手を握る。

 細くて華奢で、温かな手。

 このかけがえのない手を、これからいつまでも守っていきたい。


 エヴァンは慈しむような眼差しでアイリスに微笑むと、そっと彼女の手を引いた。


「うん、行こうか、アイリス」



◇◇◇



 それから公爵家のホールでは、嫡男エヴァンの盛大な誕生会が行われた。


 大勢の貴族たちが祝辞を述べ、高価なプレゼントを贈り、公爵家と近づきになりたい家門や、エヴァンと親しくなりたい令嬢令息たちがひっきりなしにエヴァンを追いかけた。


 エヴァンは内心うんざりしていたが、それを表には出さずに、笑顔で対応した。



 ──そうして、華やかな宴が終わり、招待客たちが全員帰路へとついた夕暮れ。


 がらんとしたホールの片隅で、エヴァンとアイリスが壁に寄りかかって互いの健闘をねぎらい合っていた。


「今日は大変だったでしょう? あんなに大勢の人たちがみんなエヴァンに挨拶に来るんだもの」

「そうだね、さすがに結構疲れたかもしれない。でも、アイリスのほうが大変だっただろう? 誰が誰だか分からなかっただろうし」

「そうね、ちんぷんかんぷんだったわ。でも、大抵の場合は笑顔でうなずいてれば大丈夫だから」


 得意げな顔をして見せるアイリスに、あまり誰にでも愛想よくしないでほしいと思いつつ、エヴァンが誕生会の間ずっと気になっていたことを切り出す。


「あのさ、アイリス」

「なあに?」

「僕への誕生日プレゼントって、あったりするのかな……?」


 アイリスは何か用意してくれているだろうか。

 そうだとしたら、何を贈ってくれるのだろうか。


 どきどきと胸を高鳴らせながらアイリスの返事を待っていると、アイリスは気まずそうに目を逸らして、「ごめんなさい……!」と謝罪の言葉を口にした。


「あ……もしかして用意してなかった……?」


 ショックで胸が痛い。

 けれど、アイリスはこういうことは初めてなのだから、うっかりしてしまっても仕方ない。


 大丈夫、お祝いの言葉をもらえただけで十分だと、自分で自分の心をなだめていると、アイリスは慌てて「違うの!」と手を横に振った。


「ちゃんと用意はしてたの! でも、張り切りすぎて凝った注文をしたから間に合わなくなっちゃって……。本当にごめんなさい」

「なんだ……。そんなこと気にしなくていいよ。僕のために用意してくれてたって分かっただけでも嬉しい」


 さっきは落とし穴にでもはまったような気分だったが、今は心に羽が生えたみたいにふわふわと浮ついている。


 だからアイリスにも気に病まないで大丈夫だと伝えようと思ったのだったが、アイリスは「せっかくの誕生日なのに、これは私の不徳の致すところだから」と難しいことを言い出して、神妙な面持ちでドレスから一枚の紙切れを取り出した。


「これは……『なんでも券』?」


 中央に、可愛らしい筆跡で『なんでも券(一回のみ有効)』と書かれている。一体これは何なのかと考えていると、アイリスが説明してくれた。


「これは、今回の不始末のお詫びよ。名前のとおり、この券と引き換えに一度だけなんでもするわ」

「なんでも……?」

「ええ、なんでも」


 たとえ一度きりでも、「なんでもする」というのは少し思いきりがよすぎるのではないだろうか。

 しかし同時に、これは都合がいいな、とエヴァンは思った。


 アイリスが「なんでもする」と言うなら、本当になんでもしてくれるのだろう。


 エヴァンはもらった『なんでも券』を真剣な表情で見つめると、くるりと向きを変えてアイリスに差し出した。


「これ、今使わせてくれるかな?」

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