第17話 突然の訪問

 数日後、イーサンはアイリス・フィンドレイ公爵令嬢を泣かせてしまったことの謝罪をするため、馬車で公爵邸に向かっていた。


 ちなみに、事前の知らせはしていない。


 理由は、公爵令嬢に会いたいという手紙を送ることによって巷で変な噂が立ってほしくなかったのと、謝罪は結構だという返事をもらいたくなかったからだ。


(……それと、また彼女の兄に会いたくない)


 手紙を送れば、家族であるエヴァンにも知られてしまう。

 彼は妹をとても大切にしているようだったから、また険悪な態度を取られてしまうかもしれない。


 それに、彼が自分の前で妹に甘く接するさまは、見ていてなんとなく不快だった。


(フィンドレイ公子は、以前は内向的な性格だったように思うが、なぜあんな風に変わってしまったのだろうか。妹ができたからといって、あれほど変わるものだろうか)


 昔、どこかのパーティーで会ったときは、長い前髪で顔を隠し、おどおどしながら常に周りの様子をうかがっていたのを覚えている。


 まさか、皇太子である自分に不遜な態度を取るような人物ではなかった。


(……まあ、鉢合わせなければいいだけだ)


 今日は貴族令息の集まりで、彼は外出しているはずだ。

 そして、アイリス公爵令嬢は屋敷にいることも調べて分かっている。


 彼女にだけ会って、誠実に謝罪しよう。

 それでこの件は終わりだ。


 イーサンは、窓の向こうに見えてきたフィンドレイ公爵邸をぼんやりと眺めた。



◇◇◇



「……まさか謝りに来てくださるとは思っていませんでした」

「いや、時間が空いてしまってすまない」


 公爵邸を訪問し、応接間へと通されたイーサンは、思惑どおりアイリスと面会することができた。


 ただ、先日親しげに声をかけてきたのとは違って、今日はかなり遠慮している様子に見える。


(それはそうか……人違いだと分かったのだから)


 よそよそしい態度になるのも当然だし、元より自分は皇太子という立場なのだから、こうした節度ある距離感で接することは何もおかしいことではない。


 この訪問に戸惑っているように視線をさまよわせるアイリスに、イーサンは姿勢を正して頭を下げた。


「先日は君を泣かせてしまって申し訳なかった。そんなつもりはなかったのだが、もっと君に寄り添って話を聞けばよかったと反省している。不用意な態度で傷つけて本当にすまなかった」


 心からの言葉で謝れば、頭上からアイリスのひどく困った声が降ってきた。


「……頭を上げてください。もう、大丈夫ですから」


 顔を上げると、イーサンを見ているようで、違うものを見ているようなアイリスの淡い紫色の瞳と視線が合った。


「……ありがとう」

「いえ……」


 沈んだ様子のアイリスを見ていると胸が痛い。

 少しでも彼女の気分を上向かせられないかと思い、イーサンはお詫びにと持ってきたものを出してみせた。


「お詫びのしるしに、これを受け取ってもらえると嬉しい」

「これは……お菓子ですか?」


 豪華な箱の中には、宝石をかたどった色とりどりの砂糖菓子が美しく並べられていた。


「ああ、皇室専属の店の菓子だから街では売っていない。君は甘いものが好きなのではないかと思って──いや、勝手な思い込みだったらすまない」


 今の言い方だと、感謝を強要しているようではないかと思い直して謝ると、アイリスはふるふると小さく左右に頭を振った。


「……いえ、当たりです。私は甘いものが好きなんです」

「それならよかっ……」


 ほっとしてアイリスの顔を見たイーサンが、思いがけない驚いて青い瞳を見開く。


「君……また泣いてるじゃないか」


 笑ってくれていたらいいと思っていたアイリスは、その美しい瞳からなぜかまた大粒の涙を流していた。


 急いでポケットからハンカチを取り出して手渡そうとしたが、アイリスはそれを受け取らずに、ほっそりとした指で涙を拭いとった。


「……心配しないでください。今度のは嬉し涙ですから」

「嬉し涙……。それならよかったが……君はよく泣く人だな」


 口に出したあとに、今のは皮肉っぽかっただろうかとまた心配になったが、アイリスは眉を下げて切なそうに微笑んだ。


「こんなに泣くのは、たぶん、あなたの前だけです」

「え……?」


 どういう意味なのだろうかと思ったところで、そういえば他にも聞きたいことがたくさんあったのだと思い出した。


「アイリス嬢、失礼でなければ教えてほしいのだが、クリフというのは一体──」


 クリフの名前を出した途端、アイリスの表情が辛そうに歪んだ。しまったと思うと同時に、アイリスがその場で別れの礼を取る。


「イーサン殿下、本日はわざわざありがとうございました。お詫びの気持ちは十分伝わりました。殿下もお忙しいでしょうから、そろそろ失礼させていただきます」


 明らかに距離を取られたのを悟り、イーサンも仕方なく辞去することにした。


「今日は謝罪を受け取ってくれてありがとう。ではまた……いや、失礼する」


 思わず、また会おうと口にしそうになり、イーサンは慌てて誤魔化した。


 アイリスとのことは、謝罪して終わりにすることにしたはずだ。人違いの件は気になるが、別に無理に聞き出すようなことではない。


(それに、あまり他の令嬢と気軽に会うわけにはいかない)


 自分は婚約者がいる身なのだから、不誠実に見られる行動は慎まなければならない。


 ただできれば、アイリスとは笑顔で別れたかったと思いながら、イーサンは公爵邸をあとにした。



◇◇◇



「僕がいない間に皇太子が来たんだって?」


 アイリスの部屋にやって来たエヴァンが、腕組みしながら不満げに問いただす。


 アイリスはソファで食べようとしていたクッキーを皿に戻して「そうだよ」と答えた。


「お菓子をもらったって、そのクッキーがそうなの?」

「ううん、これは違うよ。これはお父様が買ってきたクッキー」

「そう……」


 イーサンからもらったお菓子は、なんとなくすぐに食べるのはためらわれて、まだしまってある。

 見た目がすごく綺麗だったからゆっくり眺めたかったし、もう少し気持ちの整理がついてから口にしたかった。


 ついこの間、クリフとの約束にこだわるのはやめようと決めたばかりなのに、今日はイーサンがアリアの好きそうなお菓子を持ってきたりするから動揺してしまった。


(……でも、女の子はだいたい甘いお菓子が好きなものだし、お詫びにお菓子を持ってくるのもよくあることだもの。期待するようなことじゃない)


 自分の前世はクリフだったことも、相変わらず覚えていないようだったし、やっぱり期待なんて持たないほうがいい。


 もしまた想いを裏切られたら、今度はもう立ち直れそうにないから。


「ねえ、アイリス。前世のことは、ちゃんと忘れるんだよね?」


 エヴァンが不安そうに尋ねる。

 アイリスは優しい彼に心配させないよう、にっこりと笑った。


「うん、もうちゃんと忘れるって決めたから安心して。今日だって、私から別れを切り出したんだから」

「それならいいけど……」

「ねえ、それよりエヴァンも一緒にクッキーを食べない? 今日は貴族の集まりで疲れたでしょ?」


 アイリスがクッキーを差し出すと、エヴァンは嬉しそうに受け取って、アイリスの隣に腰を下ろした。


「うん、そうだね。一緒に食べようか」


 それから二人でクッキーを頬張りながら楽しくお喋りし、アイリスはイーサンが帰り際に見せた寂しそうな顔のことを頭から追い出した。

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