ヴァーチャル

凪野 織永

第1話

血に言祝がれて、私は生まれた。


 夜薙枝垂が生まれ落ちた瞬間、真っ先に知覚したのは、自分の存在と自分以外の体温だった。

 生暖かな空気が素肌に触れる。腕や脚、胴体に纏わりつく布の感覚、数秒して、自分が呼吸をしていることに気がついた。

 ぴくり、と指を動かす。関節が動き、皮膚が伸び縮みした。感覚がある。脚も、動く。

 そこでようやく、自分が瞼を閉じていることに気がついて、ゆっくりと開く。

 視界に入ったのは、閉ざされた暗い空間。あまり大きくはないが、パソコンなどの機材やマイクが雑多に置かれている。ふと違和感を感じて、枝垂は自分の体を見下ろした。

 そして、そこで引き攣った悲鳴をあげる。


「ヒ、っ……⁉︎」


 枝垂の足元は、血に塗れていた。まだ体温の残滓が残る、ぬるい血だ。不快な鉄の匂いが鼻腔を刺した。

 枝垂は思わず自分の口元に手をやる。血はまるで自分を避けるかのような不自然な形で蒔き散っており、枝垂自身には一滴たりともそれは付着していなかった。それはもちろん、床にこぼれ落ちているものが枝垂の血ではないことも同時に意味している。

 誘導されるかのように、枝垂は周囲を見回した。見回して、しまった。

 床に落ちていたのは、死体だった。男の。

 腹、もっと言えば下腹部の辺りで上下に分かれており、その表情は想像を絶する苦痛に歪んでいる。あまりに痛々しく生々しい、苦悶の表情のまま固まっていた。瞳は見開かれたまま、しかし瞳孔反応は消失している。

 完全に死んでいる。枝垂はそれを理解した。混乱していたが、それだけは理解できた。


「なん……で……」


 思わず後ずさると、革靴が血溜まりを踏んだ。

 枝垂は、男の死に顔から目を背ける。見ていられなかった。

 だって、その男を、枝垂は知っていた。あまりによく、知りすぎていたのだ。


 今から振り返れば、それはあまりにおかしいことだった。男性の不審死というだけではない。枝垂がそれを観測するという事象自体、あり得ないことだったのだ。

 枝垂にはそもそも、覚ますべき意識などなかった。死体を見て驚く感情などなかった。ショックを受ける精神などなかった。

 それもそのはずだ、本来、夜薙枝垂は二次元的な存在で、ただの可動域が設定されたイラストに過ぎなかった。

 バーチャルユーチューバーの、配信画面上での立ち絵。通称、『ガワ』。それが夜薙枝垂という存在だ。

 一部の配信者は、そういった自分の動き、表情と連動する立ち絵を配信画面上に映し出して配信を行う。そういった配信者がバーチャルユーチューバー、あるいはブイチューバーと言われるのだが、その立ち絵が枝垂だ。

 本来ならば、ただのイラスト。ただ配信者の身振り手振りを限られた範囲で映し出すだけの絵だ。

 しかし、なぜか枝垂は自意識を持った一個体として、一個人として部屋の中にいた。それも、彼を動かしていた配信者の記憶と知識を持って。不思議なのが、経験や体感などもはっきりと覚えているのに、それでも『己はあの配信者ではなく夜薙枝垂だ』という強烈な実感があったことだ。

 つまり、枝垂はただのイラストでありながら謎の受肉を果たし、『夜薙枝垂』という確立された個人として存在するようになったのだ。

 本来ないはずの精神を持って。本来揺れないはずの感情を持って。

 その状態で、腹を裂かれて上下で分かれてしまった、凄絶な死に顔の男の死体を見てしまった。

 その時、枝垂は全て悟った。どうしてそうなったかはわからないが、彼は自分の姿を使っていた配信者の腹を破って生まれてきたのだと。

 自分という存在は、誰か一人の人間を殺して生まれてきた紛い物でしかないのだと。


 それから三年の月日が経過し、今に至る。

 自分が存在する上で、一人の人間が死んでいるというショッキングな状況に、枝垂は耐えられなかった。あの死体がある部屋から逃げ出して、無人のマンションの一室に住み着いて腐り続けている。腐る、というのは比喩表現だが。

 配信をすることもなく、ネットは全く開かず、飲食すらせず。だというのに、枝垂の生命は存続している。

 一つに結われた深緑色の髪は日の光を浴びずとも、飲まず食わずでも、シャワーを三年間一切浴びなくとも、清潔感のある美しさを湛えている。それは、枝垂の外観がそれで固定されているからだ。どんな状態でも、そういうものだと決まっているからだ。

 同じく、柳の刺繍が施された燕尾服も乱れや皺はない。埃だらけの部屋にいても、その服のまま何時間眠っても。細い翡翠色の目は、すっかりカーテンが締め切られた部屋に慣れてしまっていた。

 立ち絵としての美しさを保ったまま、枝垂は生きている。枝垂にとって、それはひどく残酷なことだった。

 枝垂は、本来生きているはずのないものだ。だって、彼はただの絵なのだから。生命が吹き込まれるなんてフィクションじみたことが起きるはずがない。

 ましてや、現実世界に存在する生命を食い潰して生きるなんて、そんな生命のあり方は枝垂は許せなかった。

 自分の存在を赦せなくて、ひたすらに時間を食い潰す。彼はそうして、ゆっくりと腐っていった。

 彼には仲間がいるはずだった。正確には、『中身』だった配信者がブイチューバーとしてデビューする時、共通した設定を持つ同期としてデビューした配信者仲間がいるはずだった。

 夜薙枝垂は、とある家に仕える執事、という設定だったのだ。同じ家に仕える使用人という設定の仲間が複数人いる。

 彼らも、今どうなっているのか、どうしているのかわからなかった。連絡すら取っていない。

 設定上仕えている主人も、屋敷も、現実には存在しない。それはあくまで『設定』だ。だから、枝垂は生きる意義を持たない。

 『夜薙枝垂』というキャラクターが持っているストーリーは、今までの人生の堆積と同じく実際にあったことのようにありありと記憶にある。だからこそ、己の仕事であったものですら存在しないものだと突きつけられて、仕事という存在意義すら失って。

 今日も枝垂は、ぼうっと薄暗い部屋で無意味に時間をすり潰す。

 己の命に意味がないと、己自身に刻みつけるかのように。

 心に抱えた、人間一人分の空白を埋める術を知らぬままに。



 今日も今日とて、枝垂は部屋の中で腐り続ける。何をすることもなく、ひたすら酸素を吸収して二酸化炭素を吐き出す作業を繰り返す。自分は何も生み出さない無益な存在で、地球温暖化の一因にならないように死ぬべきだと思っていたのは、はじめの一年だけだった。

 餓死しない時点で、自分は死なないものなのだと自殺すら諦めた。だからもう、自分は本当に酸素を浪費し二酸化炭素を排出する機械であり器械であるのだと思っている。

 日々をひたすらに潰し、地球上の資源を浪費し、あの配信者が死んだ意味すら見つけようとしない、無益なゴミ。それが、夜薙枝垂という個人としての自己評価だった。

 しかし、その雪解けの日は突然訪れた。

 本当に、唐突に。

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