第34話

 スーサイド小隊の談話室は、今日も今日とて平穏だった。やはりまだどこか寂しい空気が漂っているが、ローズも謹慎を終えて戻ってきている。やはり巡の分の空白はあるが、それも少しずつ埋まりつつあった。

 うつろは糸かけ曼荼羅の修理を終え、更に一からの制作に取り掛かっている。それも大半が終わり、最後の一本の糸を留めるだけ、となっていた。

 そんな最中、どこか遠くからの喧騒が耳に入って、うつろは一気に緊張感を高める。


「哀染先輩、どうしましたか?」


 側で作業を見ていた枝垂が、ソファから突然立ち上がったうつろに話しかけた。枝垂の言葉を「静かに」と制し、耳を澄ませるとやはりどこか騒がしい。


「……宮之原さん。宮之原さん、聞こえる?」


『はいはい、こちら百里。お多栄は多忙につき吾が出たネ。どした?』


「何か異常が起こってるか?」


『現在進行形で起こってるネ。……え? お多栄、それ本当? まっずい。けど丁度良かった。うつろ、緊急ネ』


 通話の向こうの扇の声は、いつになく緊迫している。つられるように、うつろも自然と手が懐の銃に伸びていた。


「何だ? 出動か?」


『違うヨ。絶対に、ラフィ・ウィングアロウを死守——』


 転瞬。


 スーサイド小隊の談話室が、下から溢れた光と炎により崩壊した。



「う……」


 枝垂が意識を浮き上がらせると同時に襲ってきたのは、激しい頭部の痛みと熱さだった。瓦礫に頭でも打ったのか、意識を失っていたらしい。傷口が熱を持っていて、重い腕を動かして触れると、まだ乾ききっていない血に濡れていた。

 耳鳴りがひどい。視界が霞む。体が鉛のように重いし、断続的に殴られ続けているように頭が痛む。それでも、枝垂は顔を上げた。何が起こったのか、理解しきれていなかったから。

 ようやく鮮明になった視界の中で一番に映ったのは、うつろとラフィの背中だった。

 ラフィは、片翼が丸ごと焼け焦げていた。壁に風穴が開いているのに逃げないのはそのせいだろう。残った半分の羽を刃として縦横無尽に操っているものの、負傷しているせいか羽根も体も動きが緩慢だ。

 そしてうつろは、普段の格好ではなく鬼剣舞を舞った際の水干の姿になっており、手には七支刀が握られている。明らかに肩が上下しており、真っ白な衣装が所々血に濡れていた。

 うつろの背に庇われる位置はで晶が仰向けになっている。運が悪いことに、腹に鉄筋が刺さっていた。ピクピクと時折痙攣しているが、それは生きているからか、それとも既に消えた命の残火なのかはわからない。

 ローズは脚が変な方向に曲がっていて、壁にもたれかかっていた。銃は破損しており、意識が朦朧としているのか目の焦点が定まっていない。


「あぃぞ、せんぱ……」


「っ、夜薙くん! 立てる⁉︎」


 うつろの表情は雑面に隠されているが、頬に冷や汗が伝っているのが見えた。立ちあがろうとするが、全身の細かい擦過傷が痛む。頭が悲鳴をあげて、視界が眩んだ。

 枝垂の息を詰める音だけでわかったのか、「安静に」とうつろは言う。


「け、ど……」


「いいから」


 けれど、うつろだって、傷を負っている。

 だって、片足がなくて、それをラフィの羽根で支えられて辛うじて立っているのに。

 枝垂のすぐ近くには、刀で切られたかのように切り口が綺麗な脚が、瓦礫に半ば押しつぶされている。おそらく、瓦礫に挟まって、動けるようになるために、自分で。

 立ち上がりたい。けれども、枝垂の体がそれを拒絶している。これ以上動いてはいけないと警鐘を鳴らしている。体の重さが、ひどくもどかしかった。

 せめて、暗器でも投げて補助をできれば。そう思って、少し離れた位置にいる敵影を睨みつけて。


 そして、体が竦んだ。


 硝煙が立ち上るアサルトライフルをうつろ達に向けるのは、あまりに見知った女性だったから。

 紫紺の髪と瞳。紫陽花の刺繍が施されたメイド服。その口元には、暗い愉悦による笑みが浮かんでいる。


「てまり、さん……」


「……あぁ、おはようございます、枝垂さん。手荒な真似をしてしまって申し訳ない。今この狼藉者を始末しますので、ご安心をば」


「狼藉者って、どっちがだっ……」


「黙りなさい」


 引き金が引かれ、銃声が幾重にも轟く。


「っ、」


 うつろは七支刀を閃かせ、同時にラフィが羽根の一部を浮き上がらせた。

 金属と金属がぶつかり合う音が何重にも重なり、反響する。驚くことに、放たれた銃弾のほとんどが刀と羽根によって弾かれているのだ。刃に跳ね返った銃弾がコンクリートに埋まり、一部は鉄筋に更に跳弾する。チュン、と不吉な音が耳元で鳴って、弾自体は当たってはいないものの耳が熱くなった。


「ぅ、ぐ……」


 それと同時に、うつろが呻いて膝を折った。片足がないせいだろう、一気にバランスを崩して床に頽れる。刀を支えにして完全に倒れることはなかったものの、これでは戦うことなどできない。雑面から覗いた顔は失血のせいだろう、ひどく白くなっていた。


「うつろっ、」


 ラフィが悲痛な悲鳴をあげる。羽が焼け焦げていると言うのに、彼女はうつろの背に手を添えて己ではなくうつろを立ち上がらせようとしている。

 しかし、彼女の小柄な体を手毬の影が包み込んだ。アサルトライフルの銃床がラフィの頭に叩きつけられ、ごしゃ、と重い音。ラフィは頭から血を流しながら意識を失った。飛び散った血がうつろの金髪と、枝垂の頬に付着する。僅かに残った温かさは、すぐに消えていった。


「……!」


「ラフィ、」


 枝垂は言葉を失い、うつろでさえも呆然と、名前を呼ぶことしかできなかった。

 枝垂は唖然と、頬についた粘つく液体に触れる。


「終わった?」


 三人分の足音が、すぐ近くまで来ていた。

 重い頭を上げて見上げると、あまりに見覚えがある顔が二つ。大きなローブで顔が見えない小柄な影が一つ。


「じゃあ、さっさとラフィ回収しよ。にとろ、担ぎな」


「えっ、あちきが運ぶのかい⁉︎」


「にとろ、文句は言わずに働いていただけます? そもそもが貴女が享楽に走らず祭りに行かなかったら、もっと手早く済ませられたのですから」


「早く。もうすぐ別の署員が来てしまうのだ」


「ああもう、わかったってんだ!」


 言いながら、にとろはラフィの小さな体を抱え上げる。羽のせいでバランスが悪いのかよろめきながら、それでもしっかりと。


「どうして……狼牙さん……」


「……ごめん。けど、こうするしかなかったんだ」


 巡は切れ長の瞳をほんの少し伏せて、背を向けた。しばらくぶりに顔を合わせる機会が、こんなものになるなんて想像もしなかった。


「待って、手毬さん、狼牙さん……!」


 壁に空いた風穴から外に出ようとしていた手毬が振り返り、朗らかに笑う。まるで、旧友と再会を果たしたかのような。


「ごめんなさい、枝垂さん。今はまだ、みんなでまたお仕事はできませんけど……近いうちに必ず、帰りましょうね。私達のご主人の、奥様の、お嬢様の、お坊ちゃまの……『四季守家』へ」


「……は?」


 本気で、意味がわからなかった。

 四季守家など、本当はどこにも存在しない。

 広く整えられた庭も。

 アンティーク調で清潔なお屋敷も。

 勤勉なご主人様も。

 朗らかな奥様も。

 聡明なお嬢様も。

 少しやんちゃなお坊ちゃまも。

 どこにも、存在などしない。

 枝垂達の帰る先など、働き先で拠り所の家など、ない。


「貴女は、一体何を考えて……」


「決まっているでしょう? みんなで帰るんです。桂花ちゃんと、弥生さんと、枝垂さんと、私と、みんなで」


 懐古するように柔らかく細められた瞳。けれども、何かが決定的に食い違っている感覚に枝垂は戦慄し、声を震わせた。


「理解、していないんですか? 『四季守家』なんて、本当はどこにも、このリアルの世界のどこにもないということを」


「ええ、確かに、リアルにはないですね」


 手毬の瞳に、狂気が瞬く。


「全て全て、死んでしまわれた。消えてしまわれた。だから、私達もそちらに行けばいいだけの話です」


 枝垂は、自分の頭から血の気が引いていくのがわかった。


「心中……ということですか? けれど、『ガワ』は死ねないはず……」


「死ねるかもしれない方法を見つけたから、今私はここにいるんですよ。大丈夫です。すぐに帰れますから。すぐにこの世界から退去して、消滅して、そして私達の本来の世界に行けるんです」


 そんな突飛な話、あるのだろうかとつい勘繰る。しかし、その前に枝垂よりも瞳の色を変えた者がいた。


「……消滅?」


 死、ではなくて、消滅。

 うつろが、呟く。雑面に隠された藤色の瞳が、危うげな希望の光を宿す。


「本当に、消えれるの?」


 ひどく幼い響きの声が、ポツリと落ちる。


「哀染先輩、何を……」


「本当に、消えれるの?」


 もはや枝垂の言葉など耳に入っていないとばかりに、うつろは手毬を見上げていた。縋りつくように。救いを求めるように。


「……ええ、消えれますが、何か?」


 手毬の抑揚のない声。

 うつろは七支刀を床に突き刺し、支えにしてふらりと立ち上がった。


「……ぼくも、つれてって」


 その言葉は、まさに晴天の霹靂だった。


「哀染せんぱ、」


「消えたい。ずっと消えたかったんだ。死にたい、じゃない、消えたい。だから……だから」


「仲間にして、って?」


 表情を歪めたのは巡だった。


「そんなことをしてこっち側に何の得が」


「天使が必要なんだろ? 正確には、天使みたい見た目をした『ガワ』が。一人……いや、二人、伝手がある。その人間性もある程度はわかる」


「それを交換条件と? 正直、天使はもうある程度集まっているのですが」


「足りないなら、単純に戦力増強と考えてくれ。警察の戦力、それもそれなりに高い位置にいる者がそちらにつくんだ。望むところだろ」


 手毬は口元に手を遣って黙り込んだ。思考を後押しするように、うつろが更に続ける。


「僕は警察の組織形態も、人員の数も、備品もある程度把握している。それを保管している場所も。『天皇同盟』の時に武器を奪ったの、君らだろ。欲しているんじゃないのか」


「……良いでしょう。巡、手を貸してあげなさい」


「…………わかった」


 巡がうつろに肩を貸して、半ば引きずるようにしながらも移動していく。


「待って、待って……! やめてください、行かないで! 手毬さん! 狼牙さん! 哀染先輩! やめて、やめて、やめて……私からもう何も、奪わないで!」


 ああ、神様。どうして私が愛したものばかり、私から離れて行くのですか。


 私はただ、罪を償いたかった。贖いの時まで、ギロチンの刃を頭上に留めるロープが断ち切られるまでのほんの少しの時間を、私の人生として歩んでいきたかっただけなのに。

 何かを愛して、何かを嫌って、普通の人間として生きるなんて、罪深く分不相応なことを願った罰でしょうか。この程度の土産話をあの世に持っていくことも、許されないのでしょうか。

 神様。


 あの小さな談話室が、私の唯一の平穏だったのに。


 枝垂の慟哭は虚しく消えていく。

 みんなみんな、振り返りもせずどこかに行く。

 泣いても、叫んでも、絶望しても、誰も脚を止めはしない。

 枝垂一人を置いて、どこかへと行く。

 みんな。

 糸が全て燃え尽きた糸かけ曼荼羅が、枝垂の涙を受け止めていた。

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