第32話


 炎火にとろの確保から一晩。

 始夏祭と、その裏で起こった秘匿されし事件の騒ぎがすっかりと落ち着き、街とっくにいつもの様子を取り戻している。


 しかし、スーサイド小隊待機室だけは別だった。


 ソファに座り込んで頬を膨らませ、貧乏ゆすりを繰り返す晶。彼女は二人掛けのソファに座っているものの、その隣は空白になっている。彼女と対照的な黒の色彩が、今はないのだ。

 晶ほどではないが、うつろもピリピリとした空気を隠しきれないでいる。ラフィは知らん顔をしているが、枝垂はどうしたものかと思案顔だ。

 とはいえ、二人がこうも苛立っているのも仕方のない話である。何せ、スーサイド小隊の隊員総勢七名のうち、二名がいないのだから。


 ローズは勝手な行動を咎められて謹慎処分になっている。とはいえ、署長であるラピが人情を慮ってくれたので、謹慎期間は二週間ほど。その間は寮であるアパートホテルではなく、警察署内に軟禁されるような形になっている。レイもまだ署にいるので、これはむしろローズにとって都合が良いだろう。


 問題はもう一人。突然『内通者の疑いあり』として情報部隊長二人に拘束された巡だ。


 スーサイド小隊隊長であるうつろがいくら詰め寄っても、巡を内通者と判断した理由は不明。情報が完全に多栄と扇の間で秘匿されているらしく、巡が今どこにいるかもわからない。完全な独断の行動なのでラピも頭を痛めていた。

 二人の行動は、晶やうつろからしたら難癖をつけているようにしか見えないのだ。それで仲間を連れ去られたとなると、苛立つのも当然の話である。

 晶が突然立ち上がり、ツカツカとヒールの音を鳴らしながら部屋を出て行った。彼女は巡が確保されたと朝一番に聞かされてから、何度も部屋を出て巡の影を追い求めるかのように署内を彷徨う。

 初めこそうつろや枝垂に何か一言言い残していたものの、昼も過ぎた今ではそれもない。数十分後に帰ってきて、しばらくしたらまた警察署中を歩き回ることだろう。

 晶の足音が聞こえなくなった頃を見計らって、うつろが小さく、しかし長くため息を吐いた。


「哀染先輩……」


「……ん、ごめん。巡に関しては進展はないんだ。ラピに掛け合ってみたけど、何も」


「いえ、そうではなく……大丈夫、ですか?」


「……何が?」


 うつろはきょとんと大きな瞳を瞬かせ、幼なげな仕草で首を傾げる。

 枝垂は部屋の角で丸まっているラフィの様子を確認する。彼女は三角座りのまま眠り込んでいるようで、目を閉じていた。


「……その、今日は腕、結構掻いている気がして。少し見て良いですか?」


 うつろはぎくりと体を強張らせ、恐る恐る腕を差し出す。


「……良い、けど……」


「失礼します……わ」


 うつろの腕を掴み上げて、上着の袖の中を覗き見た枝垂は驚きの声を漏らした。インナーの袖に、濃く血が滲んでいたのだ。上着に染み出すのも時間の問題だろう。


「袖捲りますね。……哀染先輩……」


 枝垂は呆れを露骨に表情に出しながらうつろの顔をじとりと睨む。肌全体に薄く掻きむしった赤い痕があり、リストカットの傷が開いて血が出ている。


「包帯、巻いてないんですか?」


「だって、どうせ治らないし……」


「止血程度には役に立ちますから。実際、インナーに血がついちゃってますし」


 うつろはばつが悪そうな顔をして目を逸らす。子供っぽい人だと思いながら、枝垂はため息を吐いた。


「ストレスがかかってるんですね。まあ色々ありましたし、仕方ないことです」


「そんなこと言ったら、夜薙くんだって大変だろ。炎火にとろの事情聴取が終わるの、待っていられないんじゃない?」


「それはまあ、そうですけど。焦ったって何にもならないし、どうしようもない時はどうしようもないので」


 嘆息し肩を竦めた枝垂に、うつろは目を丸くする。


「……なんかきみ、達観してるね」


「『中の人』の影響かと。そんなことより。私より哀染先輩ですよ」


 部屋に備え付けてある救急箱を取り出して、消毒をしてから包帯でガーゼを患部に固定する。手慣れた動きで処置を終えると、救急箱を使ったことを誰にも気取られないように元の位置に戻した。


「服どうします? 洗いますか?」


「上着は汚れてないからいいよ。ありがとう、夜薙くん」


 とは言いつつも、うつろは腕のことが気になるのかふとした時に服の上から握る仕草を見せている。


「……もしかして、無意識に触れてしまうのでしょうか」


「え?」


「眠っている時とか、今みたいなぼうっとしている時とかも」


「……そうかも」


 いつだって、この腕に傷を増やしたい衝動があるけれど。それを押し込めて無意識下に追いやろうと何も考えないようにしていると、気付かず腕を掻きむしっているのだ。

 流石にそれは、枝垂に心配をかけたくないから口を噤むが。


「だったら、他のことに集中していれば触ってしまうこともないのでは?」


「他のこと? けど僕、趣味はないよ」


「え? ……その、お気に障ったら申し訳ないですが……哀染先輩の『中の人』は随分多趣味で居られたようですが」


 配信上でのうつろの『中の人』は古のオタク文化に詳しく、アニメ、マンガ、ゲーム、ライトノベルなどと趣味が多岐にわたっており、歌唱、ダンスも得意としていた。休日は趣味に没頭していたら気づけば深夜になっている、などと語っていたこともある。


「……あくまで、『中の人』がね」


 うつろの声がワントーン下がった。これは触れてはいけないことだったか、と記憶しながら枝垂は話題を変えようと少し声を大きくする。


「ほら、これ。見てください」


 それは、木の板に丸い形にを描くように打ち付けられた釘に、色とりどりの糸がかかっているものだった。

 精密な曼荼羅模様が糸によって作り上げられており、一種の芸術品のように見える。

 いいや、実際それは芸術作品なのだろう。触れたら崩れてしまいそうな脆さと、それ故の美しさの。真ん中に穿たれた穴に視線が吸い寄せられて、離れない。


「……きれい。何これ」


 うつろは思わずそれを手に取り、呟いていた。


「糸かけ曼荼羅、っていうらしいです。この前のお祭りの時、お店で売っていてつい買ってしまって」


「糸かけ、まんだら……」


「少し調べてみたんですけど、どうやらその模様は仏様の世界を表しているらしいです」


「……なんか、わかる気がする」


 仏とは、悟りを開いた者のこと。人智の及ばない場所の向こう側に行って、そのために人ではなくなった存在。糸掛け曼荼羅をじっと見ていると、それが少し理解できる。

 永遠に続く深淵のような、落ちて沈んで戻ってこれないような、そんな深い深い世界が、この糸の向こう側にある。そんな気がするのだ。


「これ、普通に個人で作れるらしいんです」


「作れるって、これを?」


 うつろは凝然と手の中にある糸かけ曼荼羅を見つめる。この不可思議な幾何学模様を作るのは、いかにも骨が折れそうだ。


「よろしければ、作ってみませんか。試しでも、手慰みでも良いですから」


 言いながら、枝垂は糸かけ曼荼羅に手を伸ばし。

 ぷつりと、爪で容易く糸を切ってしまった。


「あぁーっ!」


 うつろが思わず悲鳴を上げる。糸が複雑にかけられているため糸を一本切った程度では崩れはしないが、けれど時間と共に確実に壊れていくだろう。


「切れたのはこの一本だけ。これだけでも、直してみませんか?」


 断ち切られた一本の糸さえ直すことができれば、この糸かけ曼荼羅はすっかり元通りになるだろう。触れるのさえ初めてのものを元通り綺麗に直せるかと言うと、絶対とは言い切れないが。


「……きみ、結構強引だね」


「それほど、貴方のことを気にかけていると思ってくだされば」


「ふは、よく言うよ。可愛くない後輩め」


 うつろは釘に未だ絡みついた黒い糸を抜き取りながら、柔らかく微笑んだ。


「けど、いいかも」


 そう言いながら笑ううつろの顔はひどく無邪気で、純一無雑で。

 まるで年端もいかない幼子のような。自分の好きなもの一つ、自分で決められたことがなかったような。

 そんな、残酷なくらいの無垢さを秘めている。


 もしかしたら彼は、いいや、自分も、全ての『ガワ』も、みんな『中の人』をトレースしているだけの、三歳ばかりの子供だったりして。


 そんな荒唐無稽な考えを振り払って、枝垂は『糸かけ曼荼羅の作り方』というホームページを開いた。

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