第2話


 その日は、朝から少し騒がしかった。人の気配がなどではなく、鳥の囀りなどがだ。布団一つ敷いていないそのままのフローリングに横たわったまま、無感情にカーテンに遮られた窓に眼球を向けた。

 そして、そのささやかな喧騒は、鼓膜を切り裂くかのような巨大な声に叩き殺された。その表現が適切なほどに暴力的で、小さな鳥など死んでしまうのではないかと思うほどの衝撃的な音だ。


『ひれ伏せぇェエエエェエエ!』


 それは女の声のようだった。機械を通した大音声。そして、なぜだかその声には強制力があったかのように思える。元から地面と仲良くしていた体が、更にずっしりと重くなった。

 きぃん、と耳鳴りがする。久方ぶりに聞いた自分の呼吸音よりも大きい音に、鼓膜が悲鳴を上げた。

 枝垂が耳をおさえて蹲った数秒後。追い討ちをかけるかのように爆音。それも、壁を二枚三枚しか隔てていないような間近からだ。


「っ……⁉︎」


 三年の年月をかけて錆びついた反射神経のせいで悲鳴すらあげられず、掠れた声のなり損ないを絞り出す。そして次に顔を上げた時。

 耳を劈く、轟音。

 天井が、壁が、外と枝垂を隔てるものが、破砕された。

 日光を直接浴びるのは、実に三年ぶりだ、誰よりも何よりも、枝垂の体がそれに驚いているような気がする。視界に入り込んだ眩い光に、思わず目を閉じた。

 瞼越しでも眼球を刺すような痛み。しかし、数秒してそれに慣れると枝垂はゆっくりと目を開く。

 目の前の光景にあるのは、半径二メートルほどの鉄球でもぶち当てられたかのように風穴が空いたマンションの壁。それと、ちりちりと空気を焦がす温度を持った瓦礫。

 そして、壁だったものの欠片が散らばるフローリングの上で、一人の青年が横たわっていた。先ほど枝垂が、そうしていたかのように。しかし、青年の様子は枝垂とは異なっている。

 なぜ青年が床に仰向けになったままぴくりとも動かないのか。それは、一目瞭然だった。

 青年は、下半身がなかった。

 それも、元々なかったわけではない。肉が焼けるような匂いが少しだけ漂っている。壁の破壊という現象と合わせて考えると、謎の爆発が青年の半身を巻き込みながらマンションの壁を崩したのだ。

 少し遅れて、火薬の匂いに誤魔化されながらもむわっとした血臭が鼻腔を突いた。紛れもなく、目の前の青年の血の匂いだ。

 枝垂は目を見開いたまま動かない。彼は、下半身がたった今なくなってしまった青年のことを知っていた。

 チャンネル登録者数は百万人に近く、有名、かつ大手の事務所でも指折りの人気を持つ。二◯一九年のコロナ禍の暇により急激に人気と視聴者数を伸ばしたグループ『Busy Vigil』のリーダー。


「哀染……うつろ……?」


 目の前で無惨な姿に変貌していたのは、枝垂が、枝垂の中身の配信者が最も好きだったブイチューバーの、『ガワ』だった。



「あらら、死んでしまってるんですねぇ〜」


 目の前で憧れのブイチューバー、それもその立ち絵が死んでいるという状況に呆然としている中、女性の声が降ってきた。間の抜けた、ぼんやりとしたような喋り方だ。

 見上げると、そこには藍色の髪を長く伸ばし、左目を隠した女性がいた。肩にかけられ風で翻っているというのに、飛んでいってしまう様子は全くない白衣。ベストの上からもわかるくらいに豊満な体つきで、大きく膨らんだ胸部に緩くウェーブがかった髪が垂れている。顔の半分、口元がガスマスクで隠されていて表情が全く読めなかった。

 白衣やスーツといった出立ちは、あからさまに研究者然としている。彼女は表情ひとつ変えずに哀染うつろを見下ろし、疲れたようにため息を吐いた。トランシーバーを口元にやり、気の抜けた喋り方のまま無線の向こう側に喋りかける。


「えー、こちらローズ。うつろクン、ダウンで〜す。晶クン、巡クン、あとよろしくで〜す。……それと、ちょっと巻き込まれた人いますんで、保護しますねぇ〜」


 彼女はそうとだけ言うと、枝垂に目線を戻した。


「おはようございます。夜薙枝垂さん」


「なっ、なんで私の名前を……?」


「ご自分の知名度をご存知ないので〜? 新人でありながら登録者数がものの数日で五十万人を超えたブイチューバーさん。うつろクンと同じ事務所でしたよね。もしかして顔見知りで?」


「……」


 枝垂は気分を害した。目の前の女性の言い方が、彼の中身である配信者と夜薙枝垂を混同したものだったから。それと、彼と哀染うつろに面識はないし、枝垂の中身の配信者にもない。


「申し遅れましたぁ〜。ボク、ローズ・フェンタニルと申します。多分知らないですよねぇ、しがない個人勢だったので」


 彼女、ローズの口ぶりからして、彼女自身もまたなぜか現世に現れたブイチューバーの『ガワ』であるらしい。染めた様子のない艶やかな藍色の髪に、アニメ調に整っていて可愛らしい顔ですぐにわかる。


「怪我は……ないみたいですねぇ〜。けど一応、もう晶クンたちに保護するって言っちゃったんで、ちょっとついてきてもらいますよぉ〜」


「は……? ついてくるって、外に出るってことですか……?」


 ローズは首を傾げる。


「当然じゃないですかぁ〜? うつろクンはボクが連れ帰るんで、ついてきてもらえればいいですぅ〜」


 言いながらローズはうつろの半分だけになった体を担ぎ上げた。どうやらもう事切れてしまっているようで、力が抜けきってだらんとしている。

 その濃い焦げた血肉の匂いと、肌に浮かぶ死の色に、枝垂は思わず眉を顰めた。それでも吐いたりしなかったのは、枝垂の設定ゆえだろう。枝垂はとある屋敷の執事であり、無礼な来客の対応もしていた、という設定だから。

 実際は、全てフィクションなのだから武力を振るった経験などない。しかし、彼の中核にある設定が彼の精神を操っていた。

 玄関から外に出ると、このマンションに無断で住み着いてから初めて外を見た。先ほど壁に空いた風穴からは空しか見えていなかったし、入居時は周囲なんてほとんど見ていなかったのでこの風景をしっかりと見るのは実質これが初めてだ。

 マンションの階段から、恐る恐る下を覗く。外にはきっと野次馬がいるだろう。彼らの目に、自分は一体どんな風に映るのだろうか。

 枝垂の外見は、明らかにイラストが立体になったそれだとわかる。陶器肌や、デフォルメされた瞳や鼻、口。脚の長さや頭の大きさなどのバランスや、髪の束感など。コスプレでも写真の加工なしでは再現できないレベルだ。

 そんな存在が街中を歩いて大丈夫なのだろうか。それを言うのならローズだってそうだ。彼女の場合は下半身がない死体を抱えているのだからもっと変だ。

 最悪の場合は、ローズを上着で隠してどこかに逃げてしまおう。そう思いながら、まだ朝の気配が残る住宅地を見下ろして。

 そして、瞳を驚愕に見開いた。

 そこには確かに複数人の野次馬が集まっていたが、人数はほんの数人ばかり。片手で十分に数えられる程度だ。他の人間は爆破の煙がまだあがっているマンションに見向きすらしない。

 いいや、よくよく見ればわかる。彼ら人間に、種類があるのだ。

 事件をスルーして、まるで何事もなかったかのように、あるいはそれがルーティンであるかのように仕事着や制服を纏って歩いている人間達は、体がグレーに染まっており、目や鼻、身長などの特徴が揃えられている。

 例えるなら、ゲームのモブキャラだ。パターン化したモデルに当てはめて服装や髪、性別などをほんの少し組み替えただけの、喋ることすらしない、ただ決められた動きをなぞるだけのノンプレイアブルキャラクター。

 そして、その無彩色の中で異彩を放っている複数人だけが野次馬だった。

 夜薙枝垂はブイチューバーが好きだ。正確には、彼の中身だった配信者が好きだった。その性質を受け継いでいて、枝垂もブイチューバーが好きなのだ。

 この三年間は全く配信などは見ていなかったが、けれどすぐにわかった。

 あの、普段から着るには華美で、細かな意匠が施された服装に、現実で再現するにはどれほどワックスが必要なのだろうかという髪。カラーコンタクトでは再現は難しい瞳孔と虹彩の色形。

 無彩色の中で、眩しくすら思えるくらいに色彩をもつあの人間は、ブイチューバーの『ガワ』だった。


「どう……なって……⁉︎」


 驚愕した声音は、ローズには聞こえなかったようで黙殺される。冷たい風が肌を撫でて、翠色の髪をさらう。


 ほんの少しだけ空気に春の予感を孕んだ、三月のことだった。

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