第3話 影王の顕現(2)

 高らかに張り叫ばれる声に呼応して、ぶわりと部屋の闇が、彼女を覆う影が一気に黒を強めた。


 そしてガタガタと震える空気に耐えきれず、バリィンッと悲鳴をあげて窓ガラスが次々と割れていく。


「おお、おお! これが夢にまでみた影王の力かっ!」

 素晴らしい! ますます欲しくなった! と、深まるばかりの闇に比例して、アレンは顔を煌々と輝かせ、バッと手を前の闇に伸ばした。


 まるで、望みの玩具を手にした子供の様であった……が。アレンの輝きがみるみると薄れ、弾けていた狂喜も突如ブツリと途切れた。


「……what?」

 アレンの口から単語が小さく零れ、つうっと顎に何かが滴る。


 アレンは怪訝に眉根を寄せて、目をそちらに落とすと。いつの間にか、自分の腹部にどすりと大きな黒の棘が聳え立っていた。


 そこで初めて、アレンは顎を滴るのが自分の血であり、ズキズキと這いだした何かが痛みだと分かる。


『嗚呼、やはり貴様如きの薄き黒では……まるで足らぬわ』

 ゾクリと肌が粟立つ以上に恐ろしく、全てを慴伏させてしまう様な低い声が発せられた。


 その声に導かれる様にして、アレンはゆっくりと顔を上げる。


 上げた視線の先に、薫の姿はなかった。

 何もかも潰し消す漆黒に悍ましい朱色が二つ光り、ぼわぼわと僅かに人の形を取っている様な存在がいるだけ。


「なんと、影王とは。影、そのものだったのか」

『この我を貴様如きの薄っぺらい黒と同列に語ったばかりか、愚かにも我の力を我が物にしようとした……貴様ほど飛び抜けた愚者はそうそうおらぬ』

 薫の身体を乗っ取って現れた影王は、アレンの言葉に何一つ耳を貸さず、滔々と自分の言葉を並べていく。

『この我が下に見られるとは、耐え難き屈辱……だがまぁ、直に失す事よ』

 我は貴様を忘れてしまうからな。と、ニタリと朱色の目玉が不気味に細められた。


 その言動に、アレンはヒッと大きく息を飲む。

 しかし、やはり影王は、彼を歯牙にも掛けていなかった。


『いや、我が忘れてしまうのではないな。貴様が自ら消えていくのだ。我より強い黒ではなかったが為に飲まれて終わる』

 至極真っ当の、道理だ。と、尊大に告げるや否や、アレンの身体を貫いた棘からじわりじわりと黒が蝕み始める。


「や、辞めろ!」

 アレンは頓狂な声で叫ぶと、自らに貫く棘を引き抜こうと慌てて動きだした。

 だが、棘はまんじりとも動かずに黒を流し続ける。そればかりか、棘に触れた手が黒点を作り、瞬く間にぶわりと黒を広げた。


 アレンは「アアアアッ!」と甲高い悲鳴をあげ、その手を大きく掲げて暴れ出すが。アレンを食む漆黒は少しも止まらず、加速していった。


『何とも醜く愚かしい、実に好感が持てる姿だ……が。それだけではカオルを刺激し、我の眠りを妨げてくれた罪を贖う事は出来んな』

 影王は、初めて目の前の「彼」に反応するが。そこには興味も救いもなく、ただ酷薄なものであった。


 影王からの容赦が一切なく、アレンは漆黒に飲み込まれ、棘に収縮されていく。


 そうして彼の口からあがっていた絶叫がブツッと途切れ、彼であった姿も見事にその場から、いや、現世からなくなった。


『薄すぎる……これでは腹がちいとも膨れん』

 影王はむうっとない頬を膨らませて言うと、しゅるんっと「ナニカ」を刺していた棘を自らに引き寄せてとぷんっと溶け込ませる。


 すると突然影王はクククッと、喉奥から楽しげな笑いを零し始めた。


『女狐よ、我が読めていないとでも思ったか?』

 言うや否や、影が蛇の様に素早く飛びかかり、ぼごおんっと壁と煉瓦造りの暖炉の一部が荒々しく崩壊する。


 もくもくとあがる土煙。その中央から煙を引き裂く様にして、葛の葉が現れた。毅然とした歩みで距離を詰め、キリッと鋭い眼差しで影王を射抜く。


「敵を倒し、お嬢様をお救いしてくださった事はお礼を申し上げます。しかしながら、これ以上貴方様がこちらに出る必要はない。今すぐにお嬢様をお返し下さい。さもなければ」

『鍵を使って強制封印すると? 馬鹿を言うな、女狐。久方ぶりにカオルが沈んだのだぞ』

 もう少しシャバを愉しんでも良かろう。と、しゅるんと影の蛇たちが床の黒から数匹現れ、うねうねと鎌首をもたげた。


「なりませんよ、貴方様にはすぐにお戻りいただきます」

『相も変わらず、融通が効かん女狐だ。貴様も元は我と同じ物の怪だろう、シャバを豪快に愉しみたい心は理解出来るはずだ』

 片方の朱眼がスッと側められ、ぶわっと冷たい殺気が放たれる。


 しかし葛の葉はしゃきりと背筋を伸ばしたまま相対し、「理解は出来ますが、承諾は出来ません」と淡々と打ち返した。


「お嬢様を返して頂きましょう」

 葛の葉はサッと着物の袖を抑えて、右手を掲げる。

 するとボッボッと彼女の華奢な指先が、美しく透き通った青色の炎を纏った。


『……この我が、おいそれと鍵をかけさせるとでも?』

「こちらが、幾らでもかけさせていただきます」

 触れれば勝ちとは、何とも有利なものです。と、葛の葉は嫋やかに口角をあげる。


『女狐。この我を前にして有利とは、頓狂な事をぬかしよるの』

 影王が言い終わるや否や、びゅんびゅんっと鎌首をもたげていた影の蛇が葛の葉に向かって一斉に飛びかかった。


 葛の葉の眼前に、邪悪の牙が差し迫る……が。突如、真黒の蛇と葛の葉の間を螺旋状の炎がゴウッと分断した。咆哮の様に轟々と唸り、速度を緩めきれなかった真黒の蛇達を飲み込んで行く。


 影王は、突然横から貫いた炎に大きく舌を打ち、横やりを入れてきた人物に『誰だ!』と憤懣としながら、そちらを向いた。


 すると怒りに見開いていた目が「おお」と、ニタリとゆっくり細められる。


『これはこれは……カオルの想い人ではないか』

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