第3話 影王の顕現(1)
薫はまどろんでいた世界から、じわじわと浮かび上がっていく。
ゆっくりと瞼をあげると、知らない世界が広がっていた。
最小限の火が灯された薄暗い部屋。先程いたダンスホールに似て、高さも広さもあるが。家具の一切が取り払われているせいで、がらんとした寂しさがひどく押し寄せた。
だから、まるで使われていない部屋なのかと思えば。床に積み重なる埃は一切なく、かび臭い匂いも一切しなかった。
「何、ここ」
薫はボソリと独りごち、重たい頭を抱えようと手を動かそうとする。
刹那、カチャンと甲高い金属音が鳴り、手首がガツンッとその場に抑えつけられた。
朧気になっていた意識が、一気に鮮明になる。
薫は明朗になった意識を慌てて自分に向けた。
見れば、手首と足首にじゃらじゃらと重たい金属の鎖が填められ、床から少し離れた所で吊されていた。
行動の自由を奪われているばかりか、強制的に服従の姿勢を取らされている自分の姿に警戒音がけたたましく鳴り響く。
ここがどこだか、私がどうしてこうなっているのかも分からないけれど。兎に角、これだけは言える。
「マズいわ」
蒼然と吐き出した、刹那。「何もマズくありませんよ」と、あの声が聞こえた。
意識が途切れる寸前まで聞いていた声、そしてあの時の様に闇を縫って、あの男が現れる。
「どうも、花影様。やっと目覚めてくれて嬉しいですよ」
カツンと踵を打ち鳴らし、自分の前に婉然と立ちはだかった男。その男が纏う気に、薫はゾクゾクッと総毛立った。
「あ、貴方……人間じゃなかったのね」
「仰る通り、私はあやかし。この国では吸血鬼と括られ、祖国ではヴァンパイアと呼ばれる、アレン・ロンバートと申す者です」
ニコリと妖しげに綻ぶ口元から、キラッと鋭い犬歯がのぞく。
明らかに人ではない鋭利な歯に、薫はゴクッと息を飲んでから「何故」と、虚勢を張って訊ねた。
「あの時、あやかしの気がしなかったのに」
「今はする……そうも不思議がる事ではありません、簡単な話です」
アレンは薫の言葉を淡々と遮って言うと、フッと小さく鼻で笑う。
「我々はあやかしでありながら、人に近しい生物。故に、霊気を押さえ込める事が出来るのですよ」
とは言え、いつまでも隠し続ける事は出来ませんよ。と、大仰に肩を竦めて言った。
「貴方を連れ去る時の様に本性を露わにしてしまえば、いかに隠そうとも邪悪は隠しきれません……貴女とは違って、ね」
薫は最後に付け足された一言で、全てを察する。
「狙いはコレ?」
スッと側めた目を腹部に落として訊ねると、アレンは「左様です」と満足げに大きく頷いた。
「影王、同じ闇に住まう物の怪でありながら、圧倒的な力で畏れられている存在。私はその力を知りたかったし、何より自分の元に欲しかった。ですから、わざわざこちらに渡ってきたのですよ」
それからはずっと貴女を探り、貴女だけを狙ってきた。と、ふふふと蠱惑的な笑みを零すと、ぬるぬると立体的に伸びる影が女の子、背を丸めた老人の姿にゆっくりと変わっていく。
薫は現れた顔見知り二人の姿に、ハッと息を飲んで怒声を張り上げた。
「あの時の鉄鼠も百足も、全部アンタの仕業だったのね!」
「えぇ。全く、骨が折れましたよ。貴女はなかなか堅固な護りから抜けないし、抜けたと思えば想像以上に強かったのでね。操り人形だけでは上手く捕らえられなかった」
やはり大義を成すには、自分で直接動かねばと言う事でしょうね。と、アレンは大仰に肩を竦めて、ふうとわざとらしいため息を吐き出す。
その姿に、薫の中の怒りが沸々と湧き上がった。
あんなに大勢の人達が暴れ狂う物の怪に苦しんで、怖い想いをした。
知られたくない秘密を好きな人に晒さねばならなかった。
好きな人の好きな人が現れて、私は側から離れなきゃいけなくなった。
全部、全部、自分勝手なコイツのせいだった! コイツがいなきゃ、コイツがこんな事を望まなきゃ、今頃私は……!
薫はグッと奥歯を噛みしめ、荒々しく拳を作ると。ガチャンッと鎖を大きく鳴らし、全身で怒りを表した。
その姿に、アレンは「怖いですねぇ」とニヤリと口角を上げる。
闇夜にキラリと光る牙が、闇を鮮やかに嗤う姿が、薫の堪忍袋の緒を完璧にブチブチッと切らした。
だが、そんな事にも気がつかず、アレンは「さて、そろそろ封印を解きますか」と、艶やかな笑みで続ける。
その笑みに、薫は「封印を解く?」と冷笑を浮かべた。
「えぇ、出来ないと思いましたか? かなり苦労しましたが、封印を解く術を見つけたのですよ」
「あら、残念ね。その苦労、今この瞬間で全部無駄になったわよ」
「どういう事でしょう?」
アレンは眉根をキュッと寄せて訊ねる。
刹那、ゴゴゴゴッと大地が大きく揺れだし、ガタガタッと空気までも大きく顫動する。
「こんな所で良かった、皆が……あの人が居なくて本当に本当に良かったわ!」
薫が張り叫んだ、次の瞬間。ぶわりと薫の身体に漆黒が纏い、ギランッと悍ましい赤に両目が染まる。
「存分に後悔なさい! 私をこんな所に連れ去ってしまった事をね!」
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