花影は、今日も愛を叫ぶ

椿野れみ

第1話 あの鬼教官、大っ嫌い!

「柚木っ!」

 張り叫ばれた怒声に、柚木薫ゆぎかおるはぎくりと身を強張らせてから、声が飛んで来た方をチラリと窺う。


 見目麗しいと女性達からもてはやされる端正な容姿、カッチリと纏った軍服がその格好良さを格上げしている様なものだが。今の彼、枢木雅清くるるぎまさきよは、仁王像の如く憤然としていて、老若男女を震え上がらせて逃げ帰らせる姿をしていた。


 そんな恐ろしい御仁の目が、ギロリと薫だけを厳しく捕らえている。

「もたもたと走るな、もう一周追加っ!」


 ちょっと嘘でしょ? ! やっと休めると思ったのに、もう一周ですって? !


 薫は張り叫ばれた怒声に愕然とし、もう少しで休めると緩んでいた手足達も「そんな、無理だ!」と悲痛な悲鳴をあげた。


 もう無理って? 私も無理よ、絶対に走れない!


 坂道を五十周、駆け上って下ってを繰り返している薫は、もうすでに虫の息だった。肩は大きく上下し、口からは浅薄な息が短く吐かれ続ける。辺り一面に広がった空気をたっぷりと吸い込みたいが、狭まった気管と素早い収縮を続ける肺がそれを許さなかった。

 そのせいで、薫は凄まじい息苦しさと滾々とのしかかる疲労に圧迫されている。


 ようやくそれらから解放される、と思いきやまさかのもう一周……!

 薫の苦しげな顔が更にぐにゃりと歪んだ。


 だが、直ぐさま「あぁ駄目よ。あの鬼にバレたら、もっと追加されちゃうわ」と、不平を鳴らす己を窘め、不満と苦痛が現れた顔を引き締める。


 そして「ハイッ!」と答えようとした、刹那。

「出来ていない己が悪いのに、不満げな顔をするとは何事だ! 十周に追加だ!」

 鳴った不平を少しも見逃さなかった雅清が、猛々しく薫に噛みつく。


「えええっ! そんなぁ!」

 十周と言う、とんでもない数字に薫は思わず絶叫した。


 すると「何が、そんなぁだ!」と、雅清の口からは力強い反撃が飛ぶ。

「早く走れ、もう十周追加するぞ!」

 薫は張り叫ばれた脅しに、ギョッとした。


 新たに十周追加されたのに、もう十周。計二十周なんて絶対に無理!

 薫の手足だけではなく、全臓器・全気管までもが悲鳴をあげ「もうやめて、大人しく彼に従ってくれ!」と訴えかけた。


 無論、薫も「これ以上追加されたら死んじゃうから、大人しく従うのが吉!」と、スパンッと答えを弾き出す。

 薫は「鬼教官め、ふざけんな!」と轟々に吹き荒れる怒りをゴクンと息と共に飲み込んだ。


 そして「ハイッ!」と答えてから、下りてきたばかりの坂道をもう一度駆け上る。


 薫は走った。轟々と内側で燃え盛る、禍々しい炎に押しあげられながら。


「そんなのろまは、足手纏いと餌食にしかならんぞ! もっと早く走れ!」

「……ハイッ!」

 動けなかったはずの身体が、次々と投下される燃料で躍起に動き出した。


 俄然やる気、いや、殺る気になった薫は、ダーッと走り込み、追加された十周も根性と殺意で乗り越える……が。

 やっとの思いでどさりと地に伏せった薫に待っていたのは、優しい休憩ではなかった。

「訓練場に移動しろ! 討伐練習を始めるぞ! 柚木は五分休憩してから来い!」

 雅清から飛ばされた容赦ない檄に、「五分だけなのぉ……」と薫は嘆いてから、唯一自分を受け止めてくれる大地にぐりぐりと沈み込んだのだった。




「枢木雅清、アイツ本当に鬼だわ」

 薫は荒々しく吐き捨ててから、大きな一口でご飯にバクリと食らいついた。


 そしてもごもごっと大きな頬袋を付けたまま、目の前に居る人物に向かって「アンタもそう思うでしょ?」と、同意を求める。


「まぁ、厳しい御仁ではあるけれど。それは俺達隊士を思っての厳しさってもんだろ」

 同意を求められても困ると言わんばかりに、高藤篤弘たかふじあつひろは飄々と答えてから、手にしていた味噌汁の器を傾けた。


 薫はそんな上品な答えに、ガツガツッと素早い咀嚼でご飯を飲み込んでから「嗚呼、アンタはそう言う口だったわね」と、恨みがましく言葉をぶつける。


「あの鬼の可愛いお気に入りだし、アンタ自身も枢木雅清大好きっ子だから」

「大好きっ子はお前もだろ」

 篤弘は淡々と打ち返すと、目と口をニヤリと三日月の様に細めた。


「あぁ、ごめん。お前は大好きっ子じゃなくて、枢木教官をか」

 俺は未だに忘れられないね、あの告白。と、意地悪く、そして嫌に強調された言葉に、薫の体温は急上昇し、「な、ななな」と口からは大きな動揺が零れ出す。


「何の事だか、わ、私には、サッパリ」

「私は雅清さんが好きで、大好きで! 雅清さんの隣に並びたい、ただその一心でここまで来たんです!」


 彼女の困惑をバッサリと遮り、作られた甲高い声が面白おかしく弾けた。


 その後、直ぐさま「ギャーッ!」と醜い悲鳴が追随する。

 だが、その醜い悲鳴も何のその。篤弘の言葉は少しも止まらず、飄々と続いた。


「女は慎ましく、良妻賢母にって言う時代に、男所帯しかも男でも尻込みする軍隊に突っ込んで来た女……そんなお前と比べたら、俺の思いなんか足下にも及ばねぇわぁ」

「何言ってくれてんのよ、このバカッ!」

 薫は顔を真っ赤にしながら、思いきり彼の脛を蹴り上げた。


 彼女の靴先がガツンッと弁慶の泣き所に綺麗に入り込み、篤弘は声にならない悲鳴をあげて前のめりに呻く。

「きゅ、急に何しやがんだよ……」

「それはこっちの台詞だわ! 最低、本当に最低! 人の告白を覚えただけじゃなくて、言いふらすなんて!」

「いや、これここの皆知ってるし。実質始めに言いふらしたの、あんな大声で告白したお前」

「うるっさい!」

 薫はもう一度篤弘の脛をガツンッと蹴り上げ、弱々しい言い分を強制的に終了させた。


 そしてガタッといきり立ち、背を丸めて「お前……」と苦々しく呻く篤弘を見下ろす。

「私はねぇ、もうそんな浮ついた気持ちは持っていないのよっ! 聖陽軍の人間として、皆々様を脅かす魁魔かいまを一匹でも多く討伐する為にここに居るのよ!」

 薫の身体はゴウッと燃え盛る青色の炎に包まれた。そればかりか、やる気と活気に満ち溢れた拳が胸の辺りでググッと掲げられる。


「……じゃあ、もう枢木教官は好きじゃないのかよ?」

 篤弘は顔だけをあげ、弱々しく訊ねた。

 薫はその眼差しをまっすぐ受け取ると、「えぇ」と力強く頷く。


「私はもう、枢木雅清なんて言う男は好きじゃないっ! あんな鬼、大っ嫌いよ!」

「そうか」

「えぇ、そうよ!」

 ……って、あれ? 今の「そうか」って声。篤弘じゃない、わよね?


 篤弘よりも低くて冷たさを帯びた声に、薫はハタと止まり、篤弘を窺った。見れば篤弘は、薫を越えた先だけを見つめ、ぎくりと身を強張らせている。よくよく見れば、周りに居る男達も皆表情を強張らせていた。


「やっちゃったな、コイツ」と言う様に。


 薫は「まさか……」と、篤弘の震える視線を恐る恐る辿った。


 するとそこに居たのは、話の渦中に居た人物・枢木雅清と、枢木隊副官・柊怜人ひいらぎれいとであった。


 凍てついた雰囲気を纏う雅清と並んで、怜人は人当たりの良い相貌を朗らかに崩し、かみ殺した様でかみ殺せていない笑みをくつくつと零している。


 薫は、いつの間にか自身の背後に立つ二人に対し、一気に青ざめた。


「枢木教官に、柊副教官……」

 ボソリと彼等の名を呟くと、雅清から「柚木」と淡々と呼び返される。


「何を気まずそうにしている? 俺に嫌いと言う心がバレてマズいと思ったのか? 教官が教え子に嫌われるのは常だ、だから俺はそうかとしか思わんぞ」

「えっと、いや、あのこれは!」

 薫は目の前から淡々と紡がれる言葉に、慌てて弁明しようとするが。雅清の横から、ぶはっと大きく吹き出される笑みにかき消された。


「ご、ごめん。笑うつもりはなかったんだけど、ほんっとに面白い展開過ぎるから」

 ついね。と、怜人はカラカラと笑いながら「ごめん、続けて?」と、雅清に先を促す。


 雅清は自分と薫にカラカラと笑う怜人をギロリと睨めつけてから、薫を見据えた。

「それだけ騒ぐ元気があると分かったし、民を護りたいと言う素晴らしい志も分かった。だからこれからの訓練は、もっと厳しくするからな」

 淡々と告げると、クルリと背を向け、颯爽と歩き出す。怜人は「あれ、雅、もう行くの?」と朗らかに訊ねながら、彼の後をついて行った。


 薫は告げられた先の地獄にただ呆然とし、遠のく二つの背を見送る事しか出来なかった。


「やっちまったな……」

 篤弘がボソリと吐き出す。ご愁傷様と言わんばかりの他人事だったが、今の薫自身にとっても「他人事」であった。


「やっちまった」が、自分の事を指していたと気がついたのは、バタンと二人の背が扉の向こう側に消えた時だった。


 薫はじわじわとせり上がる後悔によって、へにゃりと膝から崩れ落ちる。


「……嗚呼、最悪」

 あんな言葉ばかりが、知られてしまうなんて。と、後悔に塗れた一言がボソリと零れるが。


 幸か不幸か、彼の耳にそれが届く事はなかった。

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