五章
第1話 もうどこにも逃がさない
薫は呆然とその場で棒立ちになり、彼の顔を見ずに「本当になんで」と呻く様にぶつけた。
「なんで居るの、こんな所に……いつも、いつも」
もうこんな醜い姿を見られるのは嫌なのに、一生懸命この恋心を忘れようとしているのに……。
床の一点ばかりを見つめ続けていた瞳から、ポロポロッと涙が走った。
「さっさと、あの女性の元に帰って。お願いだから、早く」
行ってよ。と、弱々しく非難を紡いでいた口がピタと止まる。
ぐいっと力強く引き寄せられ、前のめりになる身体。ポスッと厚い胸板に受け止められるや否や、片手で掬われる様に顎を上げられ、トンッと唇が優しく重ねられる。
薫は「? !」と一瞬にしてパニックに陥り、言葉だけでなく、ボロボロと流れていた涙も嘘みたいにピタッと止まった。
慌てて逃げようとしても「もうどこにも逃がさない」と言わんばかりに、腰にぐいっと力強く手を当てられ、強引に唇もこじ開けられる。
自分が逃げていた時の様にするりと口腔内に入り込む舌に、薫は慌てて押しのけようと手に力を込めた。
だが、雅清はそんな力を歯牙にもかけず、逃げ込む薫の舌を深く追い立て、絡め取る。
深く、深く追い立てられ、遂に薫からぎこちない白旗があがった。
そのぎこちない返しに、雅清はすぐに気がつき、更に想いを流す様にしてキスを繰り返す。
そうしてようやく小さなリップ音が弾け、唇がゆっくりと離れると。薫は小さく「ぷはっ」と息を吐き出し、上気した顔で雅清を見つめた。
「な、なんで」
「これで分かっただろ」
雅清は薫の辿々しい言葉を遮って、真っ正面からハッキリと告げる。
「俺はお前を愛している。だからもう俺から逃げようとしないでくれ、俺を拒絶しないでくれ。俺はお前が側に居て欲しい。いつ如何なる時も、お前だけが隣に居て欲しいんだ」
突然告げられたまっすぐな告白に、薫の脳内がオーバーヒートし、ブツッと意識までも途切れかかった。
だが、いつまでも呆然とする事はなく「嘘だよ」と、囁く理性によって、手が付けられない程の熱さが広がっていた脳内にピシャリと冷や水が浴びせられる。
嗚呼、そうか。嘘だわ。
薫はその一撃で納得すると、「嘘でしょう?」と淡々と突きつける。
「嘘じゃない、紛う事なき俺の真心だ」
「……じゃあ、これは夢ね。嗚呼、きっとそうだわ。だって今頃、私は舞踏会の警護に当たっているはずだもの」
「夢でもないぞ」
と言うか、そんな前に遡るのか。と、雅清は呆れ混じりに突っ込んだ。
その一言に、薫は弾かれた様に「だって!」と、悲痛な声で反論する。
「そんなすぐに受け入れられると思いますか! こんな事! 今の今まで辛い事ばっかりだったのに!」
「それは本当に申し訳ないと思うが、これは本当に嘘でも夢でもないんだ。柚木、俺はお前だけを愛しているし、お前だけが欲しいと切に思う」
力強く重ねられた告白に、薫は「また言った……」と、小さく息を呑む。
その言葉に、雅清はふうと小さく嘆息してから「そりゃあ言うだろ」と、力強くギュッと薫を抱きしめた。
「お前に伝えたくても伝えられなかった心だったからな」
薫はぎゅうっと力強い抱擁に、パチパチと目を瞬いてから「本当に?」と囁く。
「枢木教官が、私を? 好き? えぇ、そんなの……あり得ないわ……」
「あり得なくない。俺はお前が思っている以上に、お前に惚れ込んでいる」
直ぐさまきっぱりと打ち返された告白に、薫の身体の熱がボッと上昇した。
そしてそのまま口をパクパクさせてから、「じゃ、じゃあ」と、訥々と投げかける。
「い、いつから。いつから、私の事を好きになってくれたのですか?」
「お前が俺の隊に入った少し後から」
「そんなに前から? !」
飄々と打ち返された言葉に、薫は「約3年前ってところなんですけど!」思いきり愕然とした。
その驚きに、雅清は「そんなに前からだ」と微苦笑を浮かべる。
「上官として振る舞わねばと思っていたし、戦場で死なせない為にお前を強くさせる事に必死だったから封じ込んでいただけで、お前を好く心はその位前から確かにあった」
「えっ、じゃあ本当に、私なんですか? 本当に、本当に? 東雲嬢じゃなく?」
「だから、俺を他の女の元に勝手に行かそうとするなよ」
天頂にゴツンッと落とされた頭突きに、薫は「いたっ」と小さく悲鳴をあげてからハッと息を呑んだ。
「痛いって事は、やっぱり夢じゃない?」
「おい、この期に及んでまだそんな事を言うのか」
もう一度伝える方が良いか? と、雅清はスッと薫の顎を掬う。
強制的にあげられる視線、そして自分を見つめる熱い眼差しと交錯すると、薫の胸がドキドキッと痛い程高鳴った。
「い、良いです」
薫は前からの視線に逃れる様にして目をゆっくりと泳がせながら訥々と答える。
「そうか、それは残念だ」
雅清はフッと小さく笑みを零し、わざとらしく肩を竦めた。
……えっと待って、待って。本当に待って。情報過多よ、こんなの。こんなに甘くて優しい枢木教官は知らないし、私を好きだったなんて事も本当に知らなかったし……やっぱり、これは夢?
ぶわっと押し寄せ、一気に一所に羅列する言葉に耐えきれず、薫の意識がふわあっと昇天していく。
「……ん? おい、柚木? 柚木! おいっ、しっかりしろ! 薫、薫!」
ブツブツと寸断されていく感覚の中、最後に残った聴覚が雅清の切羽詰まった声を確かに拾っていた。
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