第3話 どうか、幸せになって……
「本当に申し訳ありません」
東雲優衣子は前から告げられた言葉に、ひどく愕然とし、何度も目を瞬く。
それでも開く度に視界は変わらず、目の前の深々とした謝罪も依然そのままだった。
「もっと早くに、私が毅然とした態度で断りを入れるべきでありました。本当に」
「お、お待ちになって?」
干からびてひっついた声帯がようやく震え、優衣子の口から弱々しい言葉が発せられる。
優衣子は机の下で重なる自分の手をキュッと握りしめ、頭を下げる雅清の頭を弱々しい眼差しで見つめた。
「わ、私、貴方様に好かれようと必死で。自分に出来る事ならば、何でも行っていたつもりなのですよ。それなのに……一体、私のどこが至らなかったのですか?」
「貴女様が至らなかった訳ではございません」
雅清は弱々しく紡がれる言葉に、ゆっくりと頭を上げて答える。
「貴女様は素晴らしい女性です、非の打ち所なんてまるでございません」
「それじゃあ」
「それでも、私が隣に居て欲しいと思う女性ではなかったのです」
本当に申し訳ありませんが。と、頭を一つ下げて付け足される謝罪に、優衣子は小さく息を呑んで「そんな」と呟いた。
「ど、どうしても、どうしても私ではいけませんか?」
優衣子が弱々しく食い下がると。雅清はキュッと唇を結び直してから「えぇ」と、静かに頷いた。
「想い人を退けてでも隣に居て欲しい女性だとは、どうしても思えませんでした」
「……想い人」
仕事があるから、自分は相応しくないからと言われ続けていたのに。こんな突然に「想い人」なんて……。
そんな断り、いつも以上に「またまた冗談を」と笑い飛ばせる事のはずよ。
でも、どうして、どうして笑い飛ばす事が出来ないの。
今まで見たなかで一番と言う程に彼の心がしっかりと見えてしまうのは、どうしてなの。
それに何より「嗚呼、やっぱりそうだったのね」って、深く納得してしまう自分が居てしまうのは、どうしてなの。
今まで感じた事がない熱さ、言葉に出来ない程の苦しさがぐちゃぐちゃと綯い交ぜになりながら、じくじくと爪痕を残す様に内側を這った。
優衣子はキュッと唇を固く結び、更にぎゅうっと強く手を握りしめる。
そしてフッと彼から目を落として、握りしめ過ぎてギチギチと骨が悲鳴をあげる手を見つめながら「そうですか」と、小さく頷いた。
「……雅清様。一つだけ、伺ってもよろしいですか?」
「はい」
「その想い人って、薫さん?」
「はい」
雅清から同じ単語が発せられたが。一つ前の肯定よりも、二つめの肯定はまるで違った。やや重ね気味と思う程に早く、込められた熱を切に感じる。
たった一言、されど特別な一言に、優衣子は打ちのめされた。いや、「まだ好機があるわよ!」と、抗う気力がすっかり削がれてしまったのである。
「……少し、そうじゃないかと思っていましたのよ」
優衣子は小さく息を吐き出してから「それでも、頑張れば私だってと思っていたのですけれど」と、ぎこちなく口角をあげて言った。
「私は、とんだ思い上がりをしていたのですね。本当に、恥ずかしい事この上ないですわ」
「いえ、貴女様がご自分を卑下なさる必要はありません。此度の一件は全て、私に非があります。本当に貴女様には申し訳ない事をしてしまいました」
本当に申し訳ありませんでした。と、雅清の頭が再び深々と下がった。
……嗚呼。これは謝罪ではなく、雅清様の堅い決意だわ。私ではなく、薫さんを選び抜くと言う決意。
優衣子はふうと小さく息を吐き出し、弱々しく眉を八の字に下げた。
「もう頭を下げる事はおよしになって、雅清様。私、しっかりと理解致しましたから」
優衣子は雅清の頭を上げさせてから、彼と視線をまっすぐ合わせる。
「私もそうですが、想いと言うのは誰にも止められませんもの……誠に残念ではありますが、貴方様との縁談は破談の方向で進めますわ」
お父様には、私の方から伝えておきますわね。と、口角を一生懸命あげて告げた。
雅清は「本当に申し訳ありません、ありがとうございます」と、小さく頭を下げて答える。
……こんなに心の底から安堵なさった顔をされてしまったら、ぶつけたい非難も何もかもなくなってしまうわ。
優衣子は震える唇をキュッともう一度堅く結び直す。
「最後に、一つだけお願いがございますの。聞いて下さいますか?」
「何でしょう?」
「此度の破談については、私が貴女様を振ると言う形を取りとうございますの」
最後のわがまま。酷いわがままだけれど、どうしても許して欲しいわがまま。
そして私を選ばなかった雅清様への、最後の意地悪。
だから、これはきっと許されない事よね。
優衣子は「ごめんなさい、こんな事を」と、自身のわがままを撤廃しようと口を開いた。
その時だった。
「構いません」
雅清は毅然とした態度で彼女のわがままを容認する。そればかりか、「寧ろ、そうすべきです」と、積極的に押し進めた。
優衣子は思いも寄らぬ容認に、目を二、三瞬いてから「よろしいのですか?」と、確認を取った。
「そうすれば、きっと貴方様の体裁をひどく損なう事に」
「私は貴女様を傷つけるばかりでしたので、それくらいあって当然ですし、それしきの事では足りない様に思えます」
毅然と打ち返された答えに、ガツンと大きな衝撃が優衣子の内を駆ける。
色々と並べ立てても、結局は振られた女と肩書きを得るのが嫌だっただけなのに。ただ、保身に走っているだけの自分勝手な願いなのに。
……嗚呼。こんなに優しくて素敵な殿方の隣に、私なんかが座るなんて出来ないわ。
キツく握りしめられた手に、ポタポタッと雨粒が滴り落ちる。
優衣子はグッと奥歯を噛みしめてから、スッと立ち上がった。そしてどんどんと朧気になる輪郭に向かって、柔らかく顔を綻ばせた。
「雅清様、どうか薫さんと末永く幸せになってくださいませね」
最後まで言い切ると、彼女はスッと出口の方へと足を進める。
すると雅清から「優衣子嬢」と、優しく名を呼ばれ、立ち去ろうとしていた足がピタッと止まった。
「こんな男を振って良かったと思える位の男性が、きっとすぐに現れます。貴女様はそれ程に素晴らしい女性ですから」
「……もう。困りますわ、必死で気持ちを忘れようとしているのに。これでは、未練がいつまでも消えてくれませんわよ」
優衣子は弱々しい笑みを向けてから、「もう、行きますわね」と雅清からどんどんと離れていった。
そうして新たな道へと、彼女は歩き出したのである。
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