第七話
黄昏時は、全てのあわいが滲む。瑞々しい木々は、物々しくそびえ立つ影の群れへ。泣き笑い騒ぐ人々の顔色は、陰で塗りつぶされる。鳥の声すら潜められた森の中に、それは転がっていた。
汚れた着物から覗く、やせ細った腕。ろくに食べていないのだろう、野垂れ死んでいると表現するに相応しい姿で、それはただ横たわっていた。小さな体の至る所まで、闇が呑み込もうとするまさにその時。遠くから近付く者があった。
それは、年若い男であった。どこにでもいる村人のようなそのなりは武器を何も携えていなかった。唯一の手持ちは、細長い指が掴む提灯のみ。夜が迫る時分に、明かりだけを連れた男。死出の旅の案内人とも揶揄されそうな異質さがそこにあった。
哀れな道端のそれに気付き、ゆったりとした足音が明確な意志をもって寄ってくる。明かりに照らされた瞼が薄っすらと開かれ、男は立ち竦んだ。死体と見紛うそれは、まだ微かに息をしていた。
『名は』
男が問う。返答はなかった。続けて二言、三言質問を落とすも、やはり無言だけが返ってくる。暫し沈黙の後、男が会話を諦めて踵を返そうとした時、小さな口がようやくゆっくりと動く。短い言葉に、男の眼が大きく見開かれた。動揺が伝わり、火袋の中の赤い灯がゆらゆらと妖しく揺れる。
男は眼前でかがむと、逡巡した末小枝の如く細い指へ自らのものを触れさせた。冷えた指先に熱が混ざり、重たげな瞼が瞬きする。
そうしてようやくその子供は顔を上げ。
瞳がかちりと合わさった。
◇◇◇
桜爛国の王宮が美しくあり続けるには、掃除が不可欠である。雑巾を絞り終え、牡丹は先程まで繰り返していた床磨きへと戻る。二度目の謁見後から、牡丹はなるべく王宮の仕事を手伝うようにしていた。
てきぱき掃除をしているのを、丁度外から戻ってきた桃姫が見つけて近寄って来る。もてなされている最中は気付かなかったが、桃姫はこまめに市井に下っては人々を労い、褒め称えているらしい。
「そなたはよく働くのう。ああ~えらいぞ~」
「よ、寄らない方がいいよ、汚れてるから……」
「ふふ、食事の時以外は、わらわは寛容であるからなあ」
孫を甘やかすように頬擦りされて、牡丹は雑巾が美しい王を穢さぬよう、辛うじて手を捩った。
どこへなりとも行くがいい。無月の手紙にはそう書いてあったけれど、どうするか牡丹はまだ決めていなかった。この国は正直苦手だが、受け入れてはくれるだろう。クザンでセイ達と共に暮らすのも楽しそうだ。他の国に行くのもいいかもしれない。
そう言えば、弦次郎はどうしているだろうか。牡丹が帰って来るのを待っているだろうか。
無月は──。
ぐらり、と頭が重くなる。牡丹が顔をしかめると、滑らかな指先がよしよしと頭を撫でた。
「深く考えずとも、ずっと此処にいればよい」
ふわりと耳元で囁くと、桃姫はくるりと身を翻していった。囁かれた言葉が、じくじくと体の奥へ染みてゆく。
「ずっと、ここに……?」
なんとなく横髪を耳元へかき上げ、ため息をつく。
そうだ、ずっとここにいればいい。
ずっとここにいればいい。
ずっとここにいればいい。
◇◇◇
『この赤憑きが』
何度も何度も聞き慣れた言葉が投げかけられる。目が赤いだけで、村ではいつも嫌われていた。
『かつて村を襲った災いと同じ、忌々しい色だ!』
そう罵る老人すら、その災厄を自ら経験したわけではない。ずっと昔に起きた悲劇で、何故自分が理不尽に差別されなければいけないのか、納得いかなかった。
そうだ、村は嫌いだ。聞き慣れた罵声はどうでもよくなった。けれど当然、居心地よくなどなかった。本当はこんな村、とっとと出て行きたかった。こんな村に良い所なんて、一つも──。
『──ちゃん』
幼い子が、誰かの名前を声に出す。自分と同じ位の背丈をした子供が、こちらへとてとてと走ってくる。寸前で転びかけ、つい手を差し出してやった。
皆から爪弾きにされる手を躊躇いなく掴み、子供は嬉しそうに笑った。
誰だった、だろうか。
自分に唯一優しくしてくれた子は。
自分と一緒にいてくれた子は。
『ありがとう』
たった一人の特別な子、は。
そうだ、確か。
桃色の髪に、翡翠色の眼をした──。
◇◇◇
「牡丹の心は、わらわが食った」
主人の言葉を、従者の葵は顔色一つ変えず聞き入れた。暫く彼女はここに滞在するだろうからよくしてやるようにと告げられ、頷き了解の意を示す。
「不平を漏らす者が出たら連れてくるがよい」
小さな不満ならそれでよし。周囲に害が及ぶほどの反発となれば、芽を摘む。言外の意味を察しても、異論はなかった。王宮に仕える者であるなら、よくあるやり取りであった。
それで、と葵は訊ねる。
「彼女の何を食べられたのですか?」
「連れの男への情だ」
葵は少し驚いたように目を見開いた。食事の内容が、予想外であったためだ。
「無月様のですか? あのお二方は、仲がよさそうでございましたが」
「本人からも了承済みよ」
無月自身が頼み込んできたのだ。どんな手段を使ってでも、あれを自分から引き離してくれ、と。
困惑を垣間見せた頬に、扇があてられる。伏せた眼差しを覗き込み、桃姫は息が触れそうな程近くで問いかけた。
「不服か? それもまた良い」
「いいえ、桃姫様のご判断に間違いなどあるはずがございませんから」
ほんの僅か浮かんだ疑念が、瞬時に掻き消える。返した笑みには、その言葉が嘘偽りない事を示していた。
従順な従者に、桃姫は内心落胆する。もっともっと疑って、不安に取りつかれ、不信感を抱き──猜疑心に苛まれた心を食べられる、格好の機会であったのに、と。
無月への情だけでなく、記憶を全部食べる選択肢もあった。けれど全て平らげてしまえば、今の心の形が壊れてしまう。瑞々しく若いが故に、混じり気の少ない直情。その味は、実に桃姫の好みであったから。
「じきにあの娘も、この国を気に入るようになる」
あの心の在り様を手離すのは惜しい。故に桃姫は、記憶に手を加える事にした。牡丹に巣食った鬼を取り込んだことで、本人すら忘れた記憶が手中にある。桃姫を大事に思うように、この国で暮らしたくなるように、作り変えるつもりであった。
桜爛国という自らの胎の中で守り、愛おしみ啄むために。
「それまで、大事に見守ってやるのだぞ」
「御意の通りに」
言葉の内容だけならば、慈悲深い王に見えた事だろう。その裏で舌なめずりをしている鬼の貌を、従者が知る由もなかった。
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