第八話
椅子に座ったまま文に目を通し、小さく息をつく。暇な時間ができると、牡丹はよく無月の残した紙を手に取っていた。今後の方針を決める助けになれば、と思ったのだ。けれど、何度読んでも何も感じない。置いて行かれたという事実を目の当たりにするだけだ。
それなのに、何故この紙切れを未だ捨てず何度も読み返してしまうのか、牡丹には分からなかった。こんなもの、どうとも、思わないのに。
急須を携えて葵が客室を訪ねてきた時も、牡丹は相変わらず悩んでいた。
「顔色が優れませんね」
葵は盆を置くと、どうしましたかと心配そうに尋ねてくる。手紙を隣に置き、牡丹は視線を彷徨わせて髪を耳にかけた。
「最近……身体に穴が空いたみたいなんだ」
自分の何かが欠けてしまっている。それが酷く不安で、悲しい事のように感じた。
一方で、そんな事どうでもいいではないかとも思う。自分の感情がやけに、ちぐはぐな気がしていた。
揺れる声が、驚きで途切れる。遅れて鼻先に届く、自分とは違う香り。葵に、抱きしめられていた。
「すぐに気にならなくなりますわ。私も同じでしたから」
同じ、という言葉に牡丹は目を見開く。その意味を察したからだ。
「この国に住む者の大半は、桃姫様に心を食べていただいたのです」
苦難極まる過去。重荷となる感情。それらから逃れるべく桜爛国を訪れた者は皆、桃姫によって苦しみから解放された。民の心酔は、救われた経緯によるのだろう。
「ここでなら、皆幸せでいられます。辛い事があっても、桃姫様が全て食べてくださるのですよ」
通りを歩く人々の幸せそうな表情が、脳裏をよぎる。ただ笑って生きていられる日々。この国はまさに、桃源郷と称えられるに相応しい楽園なのだろう。
「貴方も、きっとここで幸せになれますわ」
優しい声で囁き、葵は背中を撫でてくれた。きっとそれは母親が子供を宥めるような温かさと同じで、ゆっくり目を閉じる。
心地いい、と思った。
ここは牡丹に、とても優しい。
そうだ、ずっとここにいればいい。
◇◇◇
その子とのきっかけは些細な事だ。いじめられていた所を助けてやって以降、雛鳥の如く後をついてくるようになったのだ。
『弱虫、泣き虫、役立たず!』
何人もの男児に囲まれ、投げつけられる悪口。それは自分とよく似ていて、けれどその子は自分と違ってすぐ泣きだすものだから、見ていられなかったのだ。
『──ちゃんをいじめるな!』
自分より大きい男の子相手だろうと、一切怯まなかった。殴ってくるなら殴り返した。退かず泣かずの姿勢に折れるのは、いつもいじめっ子の方だった。
『大丈夫だよ、あたしが守ってあげる』
自分と仲良くしてくれる子には、辛い目に遭って欲しくなかった。何があっても傍に居よう、自分が助けてあげようと、決めていた。うんと嬉しそうに頷かれ、二人は手を繋ぎ合う。
二人の家につけばもう、嫌なことは何も起きない。いつも助けてくれる頼もしい少女へ、その子はお礼とばかりによく頭を撫でてくれた。
『そなたはいい子だな』
優しく触れてくれる手に、身を任せる。そうだ、この人についていけばいい。
結局村を離れる事になっても、その気持ちは変わらなかった。別の国を訪れても、それは同じだった。
『そなたには、これの方が合いそうだ』
彼女がくれた、椿の花をあしらった髪飾り。薄桃色のそれは、今まで貰った物全てと異なる特別な贈り物だった。頬を赤らめ、少女は笑顔で礼を言った。
「違う!」
牡丹の拒絶に、周囲の風景が歪んでいく。曖昧と化した景色の中、唯一輪郭を保っている鬼が妖艶な笑みを浮かべた。
「夢の中だというのに、存外しぶといのう」
爛々と光る翡翠色の瞳。先程までそれをいっとう大事に想っていたなんて、信じられなかった。自分が、造り替えられようとしている。恐ろしい事実を前に、牡丹は先程まで懐いていた様相を全てかなぐり捨てて警戒していた。
瞳を弓なりに細め、くつくつと鬼は嗤った。牡丹が睨みつけるのを意にも介さず、肉薄して眼前で囁く。
「過去など、どうでもよいではないか。わらわが死ぬまで幸せにしてやるからな」
それは、甘くとろけるような蜜言であった。爪先が黒髪をなぞり、桜色の髪飾りを擽る。愛おしい恋人に触れるように。或いは、脆い玩具を大事に扱うように。
「うんと優しくしよう。何でも包み隠さず教えてやろう。新たな名もくれてやろう」
そうだ、それがいい。
ここにいれば、自分は。
「あたしは牡丹だ」
凛とした宣言が、誘いを切り捨てる。甘言をことごとく拒絶する瞳に宿るのは、灼熱の業火であった。
「欲しいものはあたしが決める。お前の施しなんていらない!」
一喝に応えるように、鬼の姿が突然炎に包まれた。驚いて目を見開いた美しい姿が、ぐずぐずと崩れていく。
「おお怖い、虚の器と造花の華をめくってみれば、何とも苛烈な芯よ」
罅割れた唇をにいと釣り上げ、焼けた舌では食えぬなと、鬼は残念そうに呟いた。
「実に、甘美な情炎よな──」
ゆらり、と崩れていく体が突如掻き消える。垂れてきた横髪を耳へかける。造られた髪飾りが無くなっていることに、安堵した。塵すら残らなかった跡を一瞥し、牡丹は駆け出そうとする足を止めて振り向いた。
小さな影が一つ。陽炎のように揺れるそれは、容姿が上手く掴めない。それなのに、じっとこちらを見つめているのだけは、分かった。
牡丹には、それが何なのか思い出せない。夢から覚めれば、きっと思い出せない事すら忘れてしまう。理由も分からず後ろ髪を引かれ、影の元へしゃがみ込んだ。
「あたし、師匠の所に行くよ」
牡丹は手を握るように、影の先を包む。桃姫が施したものとは違う、自然に湧き起こった気持ちからであった。
「またね」
小さな影は、ゆっくりと頷いた。
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