三章
第一話
桜爛国は、クザンと交易をしている国の一つであった。輸入した珠玉混合の石を磨くのは、敵を屠る武器ではなく、身を彩る装飾を作るためだ。
通りは一つ一つ丁寧に文様を描かれた飾り提灯で照らされ、日が沈もうと明かりが絶える事がない。看板や窓枠に至るまで精巧な彫刻が刻まれ、負けじと華やかさを競っている。
人々の装いもまた珍しく、目を引かれる。皆上衣を帯で締めているか袴を着ているように見えるのだが、上着の丈や袖が長くてゆったりとしている。袴も着物より柔らかそうな布地で、地面を擦るほど長い丈もあった。転びそうな服を難なく着こなす人々は、平和を享受して楽しそうに通りを歩いている。
絢爛たる国の様子に、牡丹はクザンの時以上の衝撃を受けていた。
「師匠、この国……凄いね」
「海を越えた異国の文化を取り入れているらしい」
「……めまいがしてきた」
頭痛に頭を押さえる弟子を、長い指が気遣うべく支えてくれた。それにほっとして、思うがまま感想を述べる。
「変な匂いがするし、空気も重いよ。風に色がついてるみたいだ」
この国に入った時から、空気が体中にじっとりと纏わりついているような違和感があった。あれが原因だろう、と無月が店先に置かれた香炉を指し示す。陶製の器から橙色の煙が薄っすらと吐き出されていた。よく見ると、町中で様々な色の煙が器から生み出され続けていた。
「あちこちで焚かれている香炉だろう。衣にも香りを付けているのだろうな」
「師匠は平気?」
「鼻がもげそうだ」
平素なふりをしているだけで、無月もきついらしい。整った頬が時折我慢の限界の様に引きつっていた。
二人が話している最中、鮮やかな髪色の女性たちが通り過ぎていく。赤や青、緑。髪の一部分だけ色の異なる者もいるから、恐らく染めているのだろう。男女を問わず飾りを身に着けている者も多く、豊かな国であることを殊更に強調していた。
こうも華やかな見目の中では、少々容姿が珍しい位では注目を浴びるほどではない。とはいえ着古した地味な着物を着ているせいで、二人はかなり浮いていた。
「負担をかけてすまない。すぐに用事を済ませよう」
◇
無月が案内した先は、王宮であった。意匠をこらされた庭園に、荘厳なたたずまいの城門。国の王がいる建物は、ひと際華美であった。
無月が封筒を手渡すと、然程時を置かずして謁見の間へ通される。幾人もの従者が控える中、深紅の玉座で待ち構えていたのは、この国のどんな装飾よりも目を引く、うら若き女王であった。
無月に並ぶ形で頭を下げながら、牡丹はまじまじと一国の王を観察した。上質な布地には、金糸の花が幾つも咲き誇っている。長い袖から零れ出ている手首はほっそりとしていて傷一つなく、優雅に扇を仰いでいた。薄桃色の髪は頭上で結われてなお余りある長さで、煙の如くゆらゆらと肩や腰を撫でている。妖しい瑞々しさと見た目にそぐわぬ落ち着きが同居した佇まいは、只人とは一線を画す風格を感じさせた。
「
無月がこの美しい女性と顔見知りであると知り、牡丹は驚いた。王宮まで迷うことなく自然に辿り着いた事を、遅れて思い出す。
翡翠色の眼を細め、桃姫は黙って続きを促した。その眼差しは、どこか面白がっているようにも見えた。
「突然の訪問、お許しください。恐れ多くも桃姫様にお願いしたい事があって参りました」
ぱちん、と扇が閉じる音が響く。従者に扇を預けると、桃姫はゆったりとした歩みで無月の眼前へと歩み寄った。歩みと共に揺れる長い裾は、魚が優雅に泳ぐ様を連想させた。
「小心者の小僧が、面の皮だけは厚くなったようだな」
瑞々しい声色と比べ、話し方は厳めしいものであった。そんな事よりも、別の光景に牡丹は釘付けになる。桃姫は白魚のような指を伸ばし、無月の顎に手を当てると無理やり自らの顔へと向かせたのだ。
近付く顔の距離に、牡丹は胸を押さえる。肺の中の空気が、唐突に重たくなった気がした。
ただし、距離のわりにその行為に親しみは殆ど感じられなかった。無月の表情が強張っていたからだ。滲み出る緊張に気付き、胸中の重たい空気が別のものへと切り替わる。
「師匠をいじめないで」
「よせ。いいんだ」
王の前で無礼ともとれる発言をしたのを庇うべく、無月は肩に手を置いて宥める。そして場を取り繕うべく、改めて弟子を紹介した。
「こちらの子は、牡丹と申します」
「牡丹?」
桃姫は形の良い眉を顰めると、今度は少女の下へ身体を寄せる。熟れた果実の匂いが突然鼻腔を擽った隙に、傷一つない指が品定めすべく牡丹の頬をなぞり、喉元で止まった。
「大輪の花王の名を冠するには、貧相に過ぎる。もっと小ぶりな花の方がお似合いよ。そうさな、今日から椿と名乗るがよい」
「嫌だよ。師匠のくれた『牡丹』がいい」
横暴な提案にむっとして、細やかな指を自らのもので払い落とす。不躾な所作に、周囲からざわめきの声が上がった。
「桃姫様に何たる無礼な!」
「よい」
流し目で囁く主人に、色めき立つ従者はすぐさま落ち着きを取り戻す。それを満足そうに確認してから、桃姫は指を口元にあて、無月へ意味ありげな視線を送った。
「そなたにしてはよくぞここまで躾けたものよ。とはいえ──」
これで仕舞いとばかりに、桃姫は二人へ背を向ける。それに付き従うように、長い裾がひらひらと踊った。
「いくらあの男直々の文があろうと、わらわと相対するに能わぬ者とは、これ以上時間を割く気にはならんな」
葵、と艶めいた声が名を呼ぶ。呼ばれた少女の従者が、頭を下げて前に出た。
「客人をもてなし、拵えよ」
それだけ告げると、桃姫は退室してしまった。代わりに前に出た少女が、二人へ頭を下げる。その拍子に、花の意匠の耳飾りがしゃらしゃらと音を立てた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます