第三話

『きれいだ、とあいつは言ったんだ』


 酒を一杯飲み干しただけで、無月の頬は真っ赤に染まっていた。

 セイが訊ねてもいないのに、言葉を紡ぎ出す。酒の力を借りて、自らの過去を知っている者を前にしてようやく、きつく蓋を閉めていた感情が溢れ出した。


『あの子を拾った日、牡丹は提灯の火を見て……きれいだと、言ってくれた』


 少女にどんな思惑があったかは知れない。この火が自分を守ってくれると、本能で察したのか。或いは火灯しへの侮蔑を含め、記憶の大半が失われたからか。それとも単に、自分の眼と同じ色ゆえ忌避感が薄かったのか。


 けれどそのたった一言だけで、受け入れられた気がした。他者に関わるのを避けていたのに、気付けば細い指を掬い上げていた。


『本当は、あいつが依存しているんじゃない。おれがあいつの気持ちを利用して、縋り付いているんだよ』


 見捨てられなかった。放っておけなかった。そうやって親切心で幾重にも包んだ本心の奥で、少女を拠り所にしていた。


 この子はきっと自分を見捨てない。離れない、と。


『あの子を想うなら早く解放してやらなきゃいけないのに、おれは手放せない。おれの、おれのせいなんだ、おれの……』


 滲んだ視界からぼろぼろと涙が零れだす。大の男がさめざめと泣くのを見て、さしものセイもぎょっとした。


『牡丹は気立てのいい子だ。い、いつかもっと真っ当な男の元へ嫁いで、おれのもとから去っていくんだ』

『おいおい、相変わらず色々溜め込んだヤツだな。そんなに気に入っているなら、とっとと手籠めにすればいいだろうに』

『できるか! おれは鬼憑きなんだぞ!』


 真っ赤な顔で叫び、わっと床に突っ伏す。親に怒られて許しを請う子供のような有様だった。


『こ、こんな化け物が、あいつを幸せにできるものか。それにおれを家族位にしか想っていないのに、従順なあいつを利用するような真似……』

『従順かあ? アイツは反骨精神があるというか、気概がありすぎる女に見えるぞ』


 セイの反論を、無月は殆ど耳に入れていなかった。牡丹の事は、目の前の男よりも自分の方が、ずっとよく知っているのだから、と。


 牡丹はただ頷くだけの存在ではない。けれど、彼女の行動を厭わしく思ったことなど、一度もなかった。火灯しの仕事の秘密など気にするな。そう言いながら、いっそ暴かれてしまいたかった。自分から離れて自由に生きろ。そう諭しながら、ずっと傍にいて欲しかった。


 嫁や娘にできるものなら、すぐにでもしたかった。今の彼女なら、喜んで受け入れるだろう。ならば、無月以外に大事なものができたその時は?

 

 情の深いあの娘の事だ。きっと大層大事に扱い、入れ込むのだろう。そうなれば、もう無月は唯一の特別な一人ではなくなってしまう。


 彼女が自分から離れる前に手放したくなって、距離を置こうとして、失敗しては安堵して、また不安になる繰り返し。牡丹との日々に安らぎを見出すほど、不安も膨れ上がっていった。


 酒の肴にうだうだと愚痴を聞かされ、さっぱり分からんなとセイは率直な感想を漏らした。


『昔のオレは人を襲いも食いもしたが、今はクザンの連中と楽しくやっているぞ』

『脳筋と一緒にするな! お前は昔から単純すぎるんだ!』


 完全に出来上がった赤ら顔で、今度は怒り出す。セイと同じように割り切るなど、できなかった。真っ当な優しい人柄を演じる男は、その実臆病で後ろ向きな、力だけ強い化け物だった。


 それに鬼の炎を操り損ねて、たった一人の友人を殺してしまった後悔は、今もなお根強い。もしまた力を扱い損ねて同じような事が起きたらと思うと、近くに大切な者を置いておくのが恐ろしくて堪らなくなった。


 また失う位なら、また傷つける位なら。

 誰とも関わらず理解されぬまま、一人でいい。


 だから無月は、牡丹を桜爛国に預けた。どうせ彼女を拾う前に戻るだけ。自分の事など忘れて、自分のいない所で幸せになって欲しかったのだ。




◇◇◇




 無月は瞼を震わせ、天を仰いだ。月のない夜はただただ暗く、果てがない。村から離れた空き地。草も生えぬそこが、かつての村が燃かれた跡地だと知る者は限られる。灯篭の明かりすら届かぬ中、中央に設えられた一本の松明だけが、唯一の照明であった。


 後ろ手に縛られ横たわらせられた無月の瞳からは、虚ろな深紅が覗くばかりだった。相変わらず掌には釘が打たれ、血が流れ続けている。釘に力を封じる仕組みでもあるのか、火の粉一つ生み出せそうにはなかった。


 釘さえ抜くことが出来れば、穿たれた手の穴など容易く塞がる。虚空衆の取り巻きや巳曽良を、鬼の炎で返り討ちにする事もできよう。けれど、また誰かを焼き殺してしまうかもしれないと理性が囁く。


 結局無月は、後ろ向きの思考に従うだけだった。今までそうしてきたように。


「よい夜だ」


 巳曽良は恍惚として顔の覆いをのける。頭部の彼方此方を泳ぐ目玉が、ぎょろぎょろと周囲を見渡した。


「長年ぬしに眼前の馳走を据え置かれ、飢えた同胞が色めき立っておるわ」


 儀式の地を囲む、黒い靄の群れ。定まった形を取れぬそれらは、暗がりからこちらをじっと窺っていた。


 異貌を晒す教祖へ跪き、取り巻き達は一様に祈りを捧げている。異形の鬼に囲まれてなお、その表情に浮かぶのは心酔であった。


「なんと恐れ多くも偉大なるお姿」

「か弱い人間に、どうか力の一端をお与えください」


 従順すぎる人間達を見て、無月は痛みとは別の理由で顔を顰める。彼らはきっと巳曽良が何をしでかそうと、抵抗せずただ受け入れるだろう。


「私で鬼憑きを作るか、或いはこれに乗じて人間を鬼の器に差し出させる気か?」


 然り、と数多の眼を細めて鬼が笑う。


「いかにぬしの力が強大であろうと、これだけの同胞と人間で分ければ代償も軽くなろう」

「推測に過ぎん。失敗すれば命を失うぞ」

「同意の上だ。人の身を捨てて力を得られるならば、命すら惜しくはないとなあ」


 力を求め悩み苦しむ人々に甘言と力で取り入り、巳曽良は賛同者を増やしていったのだろう。信者達に死や変質の怯えなど微塵もなかった。


「弱き同胞には知恵と力を授けよう。弱き人間には救済の機会を与えよう」


 ざわりと、周囲の闇が悶え蠢く。彼らは無月という生贄が捧げられるのを、今か今かと待っているのだ。


「なあに、約束通りあの村は守るとも。あの阿婆擦れの鬼の如く、給餌として飼ってやる」


 彼らの無事が保障されるのならば、もうそれでいいような気がした。


 無月は取り立てて死にたいわけではなかった。けれど贖罪の為だけにただ生きるのは、もう疲れた。散々忌み嫌われた自分を捨て去れるのなら、死ぬのも悪くはない。唯一の心残りも、自ら手放した。


 もう、何もかもどうでもよい。思考を投げ打って、目を閉じる。全てから目を背け、一人闇の中で閉じ籠もる。沈みかけた意識が、ふと男の声を拾った。


「火事だ!」


 遠くから聞こえる声に、瞼を押し開ける。微かに漂い始める、草の焼ける臭い。赤らみつつある空気。何かが、燃えている。


 想定外の煙に、心を掌握され続けた信者達はただ教祖を見つめる。逃げるべきか、消火すべきか、無視して儀式を続けるべきか、判断を仰ぐべく。


 取り巻き達には目もくれず、巳曽良はむうと唸る。


「あの炎、灯篭のものが燃え移ったか」


 先程まで充満していた鬼の影が散っている。この場を照らさんとする明かりから、逃れるように。


 思案するような素振りで顎に手を当て、巳曽良は成長しつつある炎の方角を見やる。悠長に構える動作の裏、後頭部にぼこりと目玉が生えた。


「見えておるぞ」


 顔の向きを変えぬまま、巳曽良は大きく飛び退く。枯れ枝の如き指は、少女の頭を掴んでいた。松明が照らすのは、炎よりもなお苛烈な赤の瞳。鮮やかな輝きに引き寄せられて、無月は叫んでいた。


「牡丹!?」


 会いたくなんてなかった。

 来てほしくなどなかった。

 巻き込みたくはなかった。


 けれど、それ以上に。


 無月はずっとずっと、牡丹に会いたかったのだった。

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