第三話

 一週間もの間、牡丹は王宮に箱詰めだったわけではない。適度な運動も必要と、葵が国を案内してくれる事もあった。連れ歩くのは彼女一人だけだったし、内容もただの散策だったから、衣装合わせや風呂の時よりずっと気楽だった。


「どうです、この国は。とても美しいでしょう」


 胸を張る葵は、誇らしげであった。その日の二人は橋の中央で散策を休憩し、つやつやと磨かれた欄干に手を当て町の賑わいを見物していた。着飾る人々。豊かで美しい町並み。悲しむ表情を浮かべる者など、一人もいない。


「この国を桃源郷と評し、移住なさる方も多いのです」

「あたしには全然合わないよ」


 店から漂う水色の煙に顔をしかめ、牡丹はぼやく。贅沢な暮らしよりも、あの家で師匠と暮らす静かな日々の方がよっぽど恋しかった。


 自らの国を否定されたというのに、葵はその言葉にふわりと笑って、それは残念ですと軽い口調で言った。


「……怒らないの?」

「桃姫様は、それもまた良しと受け入れておられます」


 この国の王が許しているのだから、異論などあろうはずもない。そう言った口ぶりであった。


「美とは、人によって異なるもの。故に、一つの形に合わせては綻びが出る。個性を尊ぶべき、と」


 客人の瞳を、黒い眼差しが覗き込む。そこに宿るのは畏怖でも蔑みでも無関心でもなく、羨望であった。


「牡丹様の瞳は、とてもお美しい紅玉ですわね」


 素敵ですと褒められ、牡丹はつい半歩下がっていた。下を向き、そうかなと呟く。


 これだから、衣装合わせの時が一番苦手なのだ。従者の皆は服を準備しながら、牡丹をしこたま褒めた。荒れた髪を、整えばぬばたまのようですよと称賛し、肌に潤いが出てきたと喜び、爪の形が綺麗ですねと笑った。


 何より褒められたのが、瞳の色だった。個性を尊ぶこの国では、珍しい赤の瞳は重宝されるらしい。赤憑きと蔑まれてきた身には、それを褒められるなど慣れなさ過ぎて、反応に困っていた。


「葵の方が、ううん、この国の人の方がずっと綺麗だよ」

「最も美しい方の家臣として相応しくあるべく、日々研鑽しておりますから!」


 葵は瞳を輝かせて頷く。幸せそうな横顔に、牡丹は何故か虚空衆の連中を思い出した。巳曽良に付き従う者達の、あの盲目的な眼差しを。


「桃姫様は強大な力で国を守り、私達を救い、愛してくださいます。不満などあろうはずもありません!」

「そ、そうなんだ」


 勢いよくまくしたてられ、牡丹は気圧されていた。桃姫は身勝手で傲慢なようでいて、長く傍に居れば長所の方が目立つ性格なのかもしれない。或いは牡丹の忌避さえ、それもまた良しなのか。


 嬉々として桃姫を語る口ぶりが、ふと陰りを帯びたものへと変わる。ただ一つ困ったことが、と葵はため息をついた。


「この国の者は、所帯を持つ者が圧倒的に少ないのです。皆、桃姫様をお慕いすればこそ、雑草……いえ、他の誰かと番う気など失せてしまって」

「へ、へえ……」


 先程から牡丹は、適当な相槌しか打てなかった。国民の桃姫への熱い思慕に、正直言ってちょっと引いていた。言われてみれば、散策していても殆ど子供の姿を見かけなかった。子の数が少ないながらに国として成り立っているのは、移民のお陰なのだろう。


 ですから、と葵は期待を混ぜた眼差しを向けてくる。


「貴方たちご夫婦が移住して下さるとありがたいのですけれど」


 言われた内容に、理解が遅れた。夫婦。誰と誰の事を言われているのか。思い至った牡丹は首を横に振った。


「違うよ。あたしと師匠は……」


 何といい返すべきか、言葉に詰まった。嫁、妹、娘。どれも無月からは却下されている。なら自分と彼の関係とは、何なのだろう。悩みかけて、ずっと当たり前だった関係を最近忘れていたかのように思い出し、口に出した。


「あたしは弟子なだけだよ。嫁じゃない」

「まあ、そうだったのですか?」


 葵は意外そうな声を上げた。そんなに自分は無月の妻に見えていたのだろうか。首をかしげながらも、満更でもない牡丹であった。




◇◇◇




 散歩から部屋へ戻る最中、牡丹はふと足を止めた。王宮の中にある庭園。その一角で、見慣れた姿を見つけたからだ。日が殆ど落ち、薄暗くなった空の下。黒に染まりつつある花の群れを前に立っているのは、無月と桃姫であった。咄嗟に牡丹は側柱に隠れるようにして、そっと盗み見る。師匠の下へ駆け出さなかったのは、彼らの様子が謁見の時とは違う気配を纏っていたからだった。


 紅を塗った口が楽しそうに綻び、気安い仲であるように扇で男の頬を小突く。扇で無月の表情は見え辛かったが、怯えているようには見えなかった。淡い金色に紫の瞳を宿す男の姿は、生来からの整った顔立ちと連日のもてなしの成果もあって、可憐な女王と並び立つに遜色ない。桃色の花を周囲に侍らせ語り合う二人は、一枚の絵の如き美しさがあった。


 翡翠色の瞳が、盗み見る視線に気付いて笑みを深くする。扇を閉じると、艶やかな指を無月の顎に添えた。


「難儀よな。わらわが慰めてやろうか?」

「……お戯れを」


 低く小さな声音は、何故か牡丹の耳にもしっかり届いた。一言だけなのに、冷や水を浴びたような心地と頬が火照る感覚が同時に襲い掛かる。とうとう我慢できず、牡丹は柱から飛び出していた。


「師匠っ!」


 弟子の呼び声を聞き、無月は反射的に桃姫から数歩距離を取った。その様子を見て、桃姫はくつくつと愉しげに嗤った。近寄ってきた牡丹に向き直り、指を伸ばす。


「よい。実にいい塩梅よな」


 唐突に頬を撫でられ牡丹が呆気に取られているうちに、桃姫は悠々と去っていた。

可憐な後ろ姿が見えなくなってからようやく我に返り、牡丹は無月の真正面に立つ。困ったような眼差しの師匠は、いつものよく知る彼に見えた。


「ねえ、桃姫と何の話をしていたの?」

「大した話ではないさ」


 気にする事ではないと流されそうになり、牡丹は踵を返そうとする袖を掴んでいた。気にしない事が、できなかった。


「師匠、桃姫と仲良いの? ならどうしてあたしに隠していたの? どうして」

「牡丹」


 静かな声が、追及を止める。黄昏時に覆い隠されて、見慣れたはずの表情が見えなくなってゆく。


「何故私と桃姫の仲を気にする。お前には関係のない事だろう」


 反射的に言い返そうとして、牡丹は言葉に詰まった。


 そうだ、関係がない。

 無月が誰とどんな交流をしていようが、関係がない。

 傍に居られたら、それでいいのではなかったか。


 途方に暮れて、無月を縋るように見つめる。闇色が落とされた、淡い金糸。それを纏める紐は、ずっと前から変わらぬまま。贈った組紐が髪を束ねる役目を果たしたことは、牡丹が見る限り皆無だ。それを何故悲しいと思うのか、上手く言葉にできなかった。


「分からない、けど……。あたしは師匠をもっと知りたいよ。もっと師匠の近くにいたい」

「……娘や妹のように、か」

「う、うん……?」


 多分、と牡丹はまとまらぬ気持ちのまま頷く。以前は簡単だった答えに、何かが引っかかった。


「二度目の謁見が終わったら、お前の問いかけに全て答えよう」


 牡丹は驚いて顔を上げる。無月の笑う気配を、微かに感じ取った。


「本当?」

「ああ。約束だ」


 不安な気持ちをかき消すように、ぽんと頭の上に手を置かれる。子や孫に対してのように優しく撫でられ、牡丹はほっと息をついた。


 この優しさが、湧き上がる嬉しさがあればそれでいいではないかと、穏やかな感情が波打つ心を鎮める。昔からそうだったのだから、と。


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