第二話
男は自らを、端日弦次郎だと名乗った。無月よりは若そうだが、牡丹よりは幾らか年上に見える。端正な顔立ちは誠実さも露わにしていて、好青年といった印象であった。綺麗に切りそろえられた短髪と眼は、村ではありふれた茶色だ。染み一つない藍色の着物に身を包み行儀よく正座する姿は、育ちの良さを窺わせる。
「火灯しと交渉するのは、端日家当主とその跡取りだけと決められているのではなかったか」
無月は渋顔を浮かべて決まりを口にする。その反応は想定内だったのだろう、客人は背筋を伸ばしたまま承知しておりますと告げ、にこやかな笑みを浮かべる。
「おっしゃる通り、私はただの先代の次男坊です。ですが、村をよくしたいという気持ちは父や兄に劣りません」
牡丹は村の人間達に対して然程興味はなかったから、弦次郎の境遇や顔も知らなかった。なので愛想のいい客人を見つめつつ、師匠の隣でただ黙って話を聞いていた。
「外の国では鬼から身を守るべく自衛し、幾つもの地域と交流しています。ですがこの村は昔から変わらず閉塞的で、弱いままだ」
外の国、と言われても牡丹にはぴんと来なかった。牡丹の世界は村とこの家の周辺だけで、それで十分だったから。
「夜となれば提灯なしには出歩けず、外との交流もあまりない。私はもっとここを発展させたいのです」
弦次郎は二人を見て、よく通る声で頼み込む。
「鬼を遠ざける特別な提灯や灯篭の更なる量産、そして製法を伝授して頂きたい」
束の間、部屋の中がしんと静かになった。行燈の中で小さく火が揺れ、無月はぼそりと呟く。
「お前は、父や兄から何も聞かされていないのだな」
端正な顔立ちに影が落ち、弦次郎は悲しそうに視線を逸らす。小さくため息をつくと、無月は続けた。
「それは私の一族のみに伝わる、門外不出の技術だ。無闇に広めるなどできないし、私一人では今以上の量産も限度がある」
「ですが!」
「こら、師匠をいじめるな」
師匠が困っている。そう察した牡丹はおもむろに声を上げた。唐突な横やりに弦次郎は驚いたように目を見開きばつが悪そうに視線を逸らすものの、先程より落ち着いた声音でまた話しだす。
「報酬として、私にできる事なら何でもいたします。家や金が欲しいというなら用意しましょう。村の中で暮らしたいのならば助力を惜しみませんし──」
そこで弦次郎は一旦言葉を切った。真剣な眼差しが牡丹を映し、なんだろうと首を傾げる。
「端日家の一門に加わりたいというのなら、私が彼女を正妻として娶いましょう」
ほんの一瞬だけ無月の表情が強張ったことに、他の二人は気付かなかった。話題の中心に挙げられた張本人は遅れて意図に気付き、本音を漏らす。
「あんたの嫁になるってこと? 嫌だよそんなの」
けんもほろろな返答に、無月は苦笑いを浮かべて失礼だろうとたしなめた。言い出した方も性急な提案だというのは理解しているらしく、腰を上げる。
「この件、御一考をお願いします。私は本気ですので」
提灯を手に下げ去っていく後姿を、牡丹は珍妙な動物でも眺めるかのような目つきで見送った。村八分にされている自分を娶るなど、取引のためとはいえ変なやつだと感想を抱く。
一方無月は自らの顎に手を当て、何やら考え込んでいた。牡丹の視線に気付き、思い出したようにぽつりと呟く。
「お前は確か、十六だったな」
「そうだっけ。覚えてないや」
自分の年齢をすっかり忘れている牡丹であった。しっかり把握している師匠は物覚えがいいなあと思っていると、無月はまた話し出す。
「……そろそろ嫁に行ってもおかしくない齢だ。弦次郎とかいう男、腹の内は読めんが悪い話ではあるまい。村一番の屋敷で裕福な余生を過ごせるぞ」
金持ちの男の元へ嫁ぎ、大きな家でなに不自由なく、贅沢に暮らせる。村娘の大半が羨望するであろう人生を、けれど牡丹はちっとも魅力的に感じなかった。
「絶対嫌だよ。だったら師匠の嫁になる」
無月の眼が驚いたように見開かれる。それに気を留めぬまま、牡丹は続けた。
「もしくは師匠の娘とか妹にして。そしたらずっと師匠と一緒にいられるよ」
「…………いや、そういう話ではないというか、だな」
無月は気を取り直すようにぽんぽんと牡丹の頭を撫でた。子供扱いする様を、牡丹はじっと観察する。
時折無月は、様々な感情を混ぜた複雑な視線でこちらを見つめてくる。疑問を抱いてもはぐらかされるので、いつも中身の詳細は分からぬままだ。
「いつも言っているだろう。お前は私に囚われず、好きに生きればいい」
「あたしは師匠の傍が好きだよ。それに師匠の身内になれば内緒の製法も教えてもらえて、もっと沢山仕事を手伝えるし」
「それは、お前が考える必要のない事だ」
牡丹は提灯の組み立てや灯篭の灯し方は教わったが、その材料や道具は全ていつも無月が用意したものだ。何故それで火灯しの提灯や灯篭だけが鬼避けの効能を得られるのか、何も知らなかった。いつ訊ねても、無月は決してこの仕事の根底を明かしてくれない。気にしなくていい、考える必要はない、と。
そして此度もいつもと同じく、師匠がそう言うなら、と牡丹は大人しく引き下がるのだった。
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