第五話

「さあ、わらわと共に来るがよい」


 扉が閉まった所で、ぐいぐいと腕を引かれる。振り払ってしまいたかったが、堪えて欲しいと無月から頼まれたのを思い出して、ぐっと我慢した。


「どうしてあたしだけ着飾らせたの?」


 代わりとばかりに、疑問を口に出す。無月とは会って普通に話していたのにどうして、と。言外の意図を察したように、桃姫は一層笑みを深くした。


「なあに、わらわは存分に味わうには、盛り付けにも拘る性質でな」


 そう言うと、王宮の主は謁見の間の奥にある狭い廊下を突き進む。先にある小部屋は、他の客室といささか趣が異なっていた。細かい彫り物を施された棚や上品な机よりも目を引く、大きな寝台。桃姫はそこへ、腕を抱えた牡丹ごと飛び込んだ。


 仰向けで倒れ込んだ牡丹の上に、質量を伴った影が覆いかぶさる。むせかえる甘い香りは、鬼からだろうか。それとも、部屋の隅に置かれた香炉からだろうか。


「ああ、そなたは本当に、美味そうだ……」


 惚けた声で囁かれ、牡丹は首を傾げた。元気で若々しい子が好みというのがどんな意味を持つのか、未だに掴めぬまま。


「あたしの血とか肉を食べるの?」


 猿鬼が言っていた事を思い出して呟くと、桃姫は笑みを消して牡丹から身体を離す。敷布の上に座り直すと、やはりなと吐き捨てた。


「あの臆病者めが、やはり何も告げておらんのか」


 先程までと比べ、目つきは冷ややかだ。


 ようやく牡丹は察した。桃姫は無月を好いているのではない。

 嫌っているのだ。


「わらわは、肉は食わぬ」


 身を起こし、牡丹はしげしげとそのかんばせを見つめる。ならばどういう意味なのかと一生懸命考えていると、やけに優しい声で思考を中断された。


「少し、昔語りをしような」


 そうして桃姫は、子や孫に聞かせるように語り出した。



 ある国に、一人の妃がいた。大陸で最も麗しい美貌を持つ妃と民衆から褒め称えられ、王からの寵愛も深かった。


 けれど、王の妻は一人ではなかった。そして他の妾は見目こそ劣れども、学問や芸事などを得意としていた。或いは、親族の強い後ろ盾があった。妃には、王が称賛する容貌しかなかった。 


『わらわは、美しくあらねばならぬ』


 そうでなければ愛されぬと、妃の美への執着は年を追うごとに強まった。瑞々しい肌が干からび皺が刻まれるのを恐れ、古今東西の妙薬を探し求めた。


 王の寵愛が失われることはなかった。そうなる前に、他国の侵攻により国自体が滅びたのだ。王は処刑され、妾も何人か運命を共にした。妃は幸運にも国を脱した。命からがら逃れついた先は、海を越えた異国の地であった。


 そこまでどうやって辿り着いたのか。気付いた時には最早臣下はおらず、たった一人だった。広がるは濃霧。足元は汚泥。濁った水面に映る顔は、過酷な放浪の末に汚れ果てていた。


『何と醜い顔だ』


 美。美。それだけが誇りであったというのに。


 妃は嘆いた。これから年を取り、更に醜くなっていくのだろう。そう思うと、惨めに生き永らえるなど地獄に等しかった。


 慟哭に、ふと別の気配が混ざる。妃が顔を上げると、霧の先に何かが在った。薄桃色を纏った霧は姿かたちを覆い隠し、何者かは知れない。


 けれど、姿を現さずとも分かる。あれは人ではない、と。


『化け物よ、わらわを食らうがいい』


 土で汚れた顔で天を仰ぎ、女は吠えた。狂気を瞳に宿した妃は、若いまま食われる事を望んだのだ。そうして自らの姿は化け物の中で一つとなり、美しいままで在れるのだと。


『どうかわらわに、永遠の美を!』


 その願いに応えるかのように、人ならざる気配は女に食らいついた。



「後にも先にも、人の肉を食うたのはそれきりよ」


 薄桃色の髪を人差し指でいじりつつ、かつて濃霧であったものは自らの過去を明かした。艶やかなかんばせを、瑞々しいままに繋ぎ止めて。


「幸運にも、わらわはその女と相性が良かったようでな。見事この身体は鬼の器と成したのだ」


 遠い昔の妃の物語を、桃姫は他人事のように話した。姿形は妃であっても、中身は鬼が取って代わったのだろう。確かに桃姫は美を好むが、そこに妄執や狂気の類は感じさせなかった。


「そもそも、肉を食わぬ鬼は多い。そういう鬼は総じて力が弱くてな。わらわも器を得るまで苦労したぞ」

「器……?」

「そうとも。相性の良い皮を見つけるか、或いは──」


 滑らかな指先が、牡丹の頬をなぞる。それだけの動作で、何故だか背筋に悪寒が走った。


「成り代わり易い、がらんどうの器を作るかだ」


 牡丹は指を払おうとして、頭痛に顔をしかめた。閉じた部屋の中、熟れすぎた果実に似た芳醇な匂いが充満していて、息苦しい。


「さて、肉を食わぬ鬼は何を食らうと思う?」


 しなやかな指が軽く押すだけで、牡丹の身体はふらりと寝台に倒れ伏した。驚いて起き上がろうとするのに、四肢に力が上手く入らない。


「すっかり効いているようだな」


 くつくつと漏れる声。無邪気なようでいて、底の見えぬ嗤い方だった。まさか、と牡丹は視線のみを動かし香炉を睨みつける。あれに何か仕込まれていたのだろうか。

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