第六話
細い指先が頬を下り、襟元を伝い、着物の合わせ目を撫でる。獲物を前にして舌なめずりをする鬼は、やはりぞっとするほど美しかった。
食べられる、と直感した身体に冷や汗が伝う。自分が想像しているものとは違うらしいが、何やらまずい事が起きようとしているのだけは理解した。
「い、……やだ」
舌が上手く回らず、小さな拒否の言葉は笑い声一つでいとも簡単にかき消された。思考は焦り始めているのに体は鉛のように重く、微かに身を捩るだけでは到底逃げられようもなかった。
碌な抵抗をできないまま着物を緩ませられ、綺麗に磨かれた爪が胸元へ押し当てられる。冷たく硬質な感触が、むき出しの肌に食い込んだ。
「わらわが食うのは、肉と骨に飾られた奥底──心よ」
ずぶり、と。鬼の手は少女の身体に侵入していた。肉を裂くこともなく、骨を断つこともなく、手首まで入ったそれに痛みを感じる事はなかった。その代わりに味わうのは、強烈な違和感。何かが自分の中を不躾に掻きまわしているという、不快感であった。
「ほうれ、見つけたぞ」
美しい女の手が、ずるりと胸元から出てくる。指先に捕まれたものを見て、牡丹は目を見開いた。
牡丹の胸から引き出されたのは、花であった。胸元から生えているかのように根が半ばはみ出し、掴まれた茎から分かれた芽は、ほぼ全て枯れ落ちている。ただ、たった一輪だけが赤く爛々と輝いていた。枯れた花に囲まれ唯一咲き誇る様は、いっそ拵えられた造花のような違和感を抱かせる。
「花……?」
「そなたの心に宿るものだ」
右手で茎を掴んだまま、桃姫はうっそりと嗤った。匂いを嗅ぐように顔を花弁へ寄せると、左手がおもむろに空を掴む。途端、変化を見せた花の様子に牡丹は目を瞬かせた。
根、茎、芽。全てに細く黒い糸のような靄が絡み付いている。覆いつくすようなそれは何故か、唯一花を開かせた部位には纏わりついていなかった。
「なに、それ」
「そなたの心を長年食い荒らしていた、鬼だ」
黒々とした雲のようなそれをいとも簡単に左手で捕らえ、桃姫は説明した。黒い靄はしきりに揺れ動くも逃れられず、ただもぞもぞと蠢いている。
「心が食い尽くされるのを、あの小僧の灯が守っておったのだろうな」
鬼を遠ざける、火灯しの明かり。守られていたのは、村だけではなかった。牡丹もまた、守られていたのだ。
「しかしあれは、器のないものを焼けぬからなあ。退治もできず、鬼も機会を窺ってずっと奥で隠れておったのよ」
親指が黒い霧を撫でるように動く。優しく、なだめすかすように。
「ただし、同種かつ格上のわらわであれば話は別だ」
翡翠色の瞳が吊り上がる。侮蔑と愉悦の混ざった笑みで、美しき王はいかんなあと呟いた。
「これはわらわへの献上品であるぞ」
ぐしゃり、と左手が黒い靄を握りつぶす。少女の心の奥で隠れて機会を窺っていた鬼は、あっけなく霧散した。花に纏わりついていた黒い靄は全て消え、喜ぶように赤い花が輝きを増す。空いた左手で光る花弁を労わりに満ちた動作で撫で、桃姫は優しく微笑んだ。
「よかったのう。これであの小僧に寄生せずとも済む」
「き、せい?」
意味が分からず、牡丹は戸惑いの言葉を漏らした。追い打ちの言葉が、くつくつと嗤い混じりに侵入する。
「小僧の傍にいれば助かると、本能が理解しておったのだろうなあ。縋りもしようものだ」
「ち、ちがう……!」
ろれつの回らぬ口で、それでも牡丹は反論しようとした。保身のために傍にいたのではない。
無月と一緒にいたのは──。
「では、鬼退治の報酬を貰おうか」
顎を掴まれ、無理矢理瞳を合わせられる。目を逸らす事を、赦されなかった。
いやだ、と牡丹は呻く。虚しい抵抗を続ける献上品を満足げに眺め、桃姫は無月がくれた髪飾りへと手を伸ばした。
「あの半端者め。わらわに頼んでおきながらこれでは、未練がましいにも程がある」
「かえし、て……!」
奪われた飾りを追うべく手を伸ばそうにも、どれだけ心が拒絶を叫ぼうと、少女はあまりに弱かった。片手で髪飾りを弄びながら、桃姫は懸命に動こうとする指を無視し、胸元で可憐に輝く花へと唇を寄せる。
「そなたの心は、どんな味がするのだろうなあ?」
瑞々しく赤い花弁を、艶やかな唇がぐしゃりと食んだ。
◇◇◇
牡丹が目を覚ましたのは、客室の寝台の上であった。鈍痛のする頭を押さえて起き上がるも、気怠さに呻く。どうやら寝ている間に、服を寝間着へと着せ替えられたらしかった。
「あたし、なに、してたっけ」
寝ぼけた思考で、ゆっくりと記憶を掘り起こす。桃姫に連れて行かれ、押し倒され、胸に手を突っ込まれ──。
そこまで思い出し、がばっと胸元をくつろげる。そこには傷一つなく、花も咲いてはいなかった。
「夢、だったのかな」
いらえのない呟きが、部屋にぽつりと落ちる。そういえば、先に無月が部屋に戻ると言っていた。
「……ねむい」
そんな事よりも、疲れ果てている身体の方が気にかかった。枕元に置かれた水差しを取ろうとして、見慣れぬ紙の束が目に入る。
それは、無月から牡丹に宛てた手紙であった。
『お前がこの手紙を読んでいる頃、私はもうこの国を出ているだろう。桃姫に火灯しの改良で話があるというのは嘘だ。全てお前を彼女に押し付けるための、方便だ。
行き場のなかったお前を憐れんで拾ったはいいが、いい加減子守りにも耐えかねた。私から離れ、どこへなりとも行くがいい。こちらとしてもせいせいする』
ようやく明かしてもらえた隠し事。別れの言葉。突き放すような文句。手紙に目を通し終え、ふうんと牡丹は気力のない感想を漏らした。そんな内容よりも、今は眠たくて仕方がなかった。体が重く、動くのも億劫だった。
寝台に寝転がり、ふと耳元をいじる。ずっとつけていた、あの髪飾りがない。
「別に、いいか……」
疑問はすぐに溶け消え、興味をなくす。瞼を閉じて数秒後には、心地よいまどろみに身を落としていた。
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