第五話
牡丹はぞろぞろと去っていく虚空衆を睨み続けた。視界から消えてから、力を抜くようにそろそろと息を吐く。
「師匠?」
そこで牡丹はようやく気付いた。血の気が引いた頬が青ざめ、震えていたのを。
「また、また燃えるのか」
座ったまま両手で頭を押さえ、無月は苦しそうに呻く。上がる煙の先に見ているのは、過去の光景なのだろうか。
「師匠、落ちついて聞いて」
震える両肩を掴んで、赤紫色の目を覗き込む。一言一句漏らさず、伝えるために。
「あたしが火をつけたんだ」
手から伝わる震えが束の間、止まった。信じられないものを見る目だった。
「虚空衆の目を引くには、大ごとの方がいいと思ったから」
牡丹はきっぱりと、言い切った。実際それで注意はそれた。そこまでしても見つかってしまったのだが。
無表情のまま淡々と説明する弟子に、何を言っていると無月は首を横に振った。現実を拒もうとするように。
「このままだと村まで炎が広がるかもしれないよ。嫌なら、師匠が何とかして」
ぎくりと、男の肩が大げさに跳ねる。実の所、出火場所から村は離れているし、風向きからして村まで飛び火はしないであろう場所を選んだ。燃え広がったとしても、きっと弦次郎ならば被害が出る前に皆を避難させてくれるだろうと予想していた。けれど、絶対ではない。死者が出なくとも、大火事になれば被害は甚大となる。
無月は俯き、声を震わせた。
「で、できない」
「できるよ。クザンであたしを助けてくれたじゃない。師匠は炎を操れるよ」
クザンで牡丹が猿鬼に襲われた時。窮地を救った炎は家や牡丹には燃え移らず、標的のみを焼き尽くした。だからこの火だって鎮められるはずだ。そもそも炎を制御できないのであれば、和紙に血を落とすたびに火事になっているだろう。
「お前、まさか最初からそのつもりで……」
「別に。村の連中がどうなっても、どうでもいいし」
元々自分達を冷遇し続けた村だ。どうなろうと知った事ではない。その気持ちは嘘ではなかった。
けれど歩き慣れた通りや風景が、牡丹にありがとうと礼を言ってくれた子供が、喜一郎や弦次郎の顔が脳裏をよぎるたびに、鼓動が早くなっていく。
「無理だ。大体あの時は、お前を助けたいとただ必死で……」
「ならそれでいいよ」
中々頷かない男にしびれを切らし、牡丹はぐっと顔を近づける。赤紫色の瞳には、不安の表情を隠し切れない少女が映っていた。
「あたしを人殺しにしたくないなら。あたしが産まれたあの村を守りたいと思ってくれるなら」
肩を握る手が震えそうになるのを、力を入れて踏ん張り誤魔化す。声が縋るようなものになるのは、隠せなかった。
「お願い。あたしのために村を助けて!」
ふわりと、頭に手を置かれた。懇願に、答えるように。
苦しそうに、けれど無月は微笑んでくれた。優しく撫でられ、牡丹は何故だか泣きたくなるのをぐっとこらえる。
「そんな顔をするな。……何でも言う事を聞いてやりたくなる」
長い指が耳を掠める。今は何も飾らぬそこを寂しそうに見つめてから、無月は立ち上がった。数歩も進まぬうちにふらつき、苦笑いを浮かべる。
「牡丹、すまないが肩を貸してくれ」
「っ、うん!」
声を弾ませ、牡丹はぴたりと無月に寄り添う。支えながら引っ張り歩き、炎の元へと連れて行った。
着実に大きさを増していた炎へと、かざされる手。赤く照らされる横顔は、ぐっとしかめられている。苦しいのか、それとも怯えているのだろうか。牡丹は彼が倒れないよう背中に手を添え、ただ傍にいた。それがどれだけ無月の心の支えになっているかなど、露とも知らず。
最初こそは、何の変化も感じられなかった。更なる大火へ成長せぬままであった。それが少しずつ勢いに逆らい、縮んでゆく。じわりじわりと炎は勢いを弱め、大の男の背丈から幼子よりも小さくなり、やがては小粒と化し、そしてとうとう風に煽られ火の粉が散り消えた。
「やった、やったよ師匠! ありがとう!」
明るく礼を言う声は、村に被害が及ばずにすんで弾んでいた。彼女が喜んでいるのをよそに無月の身体がよろめいたので、牡丹は倒れる前に踏みとどまらせて顔色を確認しようとした。
「見るな」
目を閉じられ、顔を背けられる直前。炎が照らさなくなった闇の中。月のない夜に淡く輝く、紅の瞳。垣間見えた色にふわりと笑って、牡丹は言った。
「あたしとお揃いだね。きれい」
桜爛国で褒めてくれた葵達もこんな気持ちだったのだろうか。自分と同じ色なのに、彼のものは特別鮮やかに映るのが不思議だった。
無月は驚いて瞬きすると、蹲ってしまった。顔を膝に埋めて隠してしまい、背中が小刻みに震え始める。どうしたのと訊ねても、返事をしてくれなかった。
「ねえ、何を考えてるの? 全部教えてよ」
約束したじゃない、と桜爛国でのやりとりを口に出す。何度も問いかけ、返答を待っている牡丹に業を煮やしたのか、とうとう無月は顔を隠したまま吐露し始めた。
「私を一人にしてくれ。お前なんか拾うんじゃなかった。お前の様な強情で身勝手で察しが悪い、物騒な女は大嫌いだ」
「でも師匠、あたしの事好きでしょう」
拒絶の言葉を気にせず、牡丹は返す。牡丹は無月の気持ちに疎いけれど、彼が決して自分の事を厭うてはいない位、ちゃんと分かっているのだ。
それに察しが悪いのは無月も同じだ。牡丹の気持ちなんて、ちっとも分かっちゃいない。
「あたしも師匠が好きだよ」
「……その好意は思い込みだ。お前は私を別の誰かと重ねているんだよ」
無月といい、桃姫といい、どうも揃って牡丹の気持ちを寄生だの思い込みだのと、ケチを付けたがる。
別の誰かと同じ位、好きだからではない。自分を助けてくれるからでもない。無月が好きだから、一緒にいたいだけだというのに。
「理由なんてどうでもいいよ、あたしは師匠が好きだから好きなんだ」
「やめてくれ、おれを甘やかすな!」
悲嘆じみた涙声が制止する。震えた慟哭が、喉元から苦しそうに吐き出された。
「手放せなくなる……!」
とうとう明かされた本音に、牡丹は首を傾げた。彼が何故そうなるのを拒んでいるのか、やはり分からなかった。だって牡丹は、彼の傍に居たいのだから。
「うん。放しても、こうやって勝手に帰って来るよ」
そう言うと、牡丹はぎゅっと無月の頭を抱きしめた。ぎくりと強張った身体を安心させるように、何度も丁寧に金の髪を撫でる。
「また捨てようとしたら、本気で怒るからね」
勝手に放置され記憶も弄られかけた。あまりに勝手な行動に腹を立てて、数発殴っても罰は当たらないだろう。それなのに本人を前にすれば、弦次郎の時のように強引に振り回す事すらせず、次こそ怒ると宣言する位だ。
無月が相手だと、甘い対応を取ってしまう。火をつけるなんて手段を選ぶほど、普段以上に無鉄砲になる。それだけ特別で大事なのだと伝えるべく、耳元で囁く。
「だから、ずっと一緒にいようよ」
慰めるつもりだったのに、どうやら逆効果らしかった。すすり泣く声が胸元で響き、最早まともな言葉は帰ってこない。代わりに着物の端を遠慮がちに、けれどしっかと掴む指が、答えだった。
それだけの動作がどうしようもなく特別な事のように思えて、落ち着かなさと嬉しさが同時に襲ってくる。滲んだ視界を拭うと、牡丹は微笑んで無月の頭を撫で続けた。
泣き声が止むまで、ずっと。
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