第二話
牡丹が連れてこられたのは、西門の近くにある大きな食堂であった。今の時間は準備中らしく、客もいない中にいるのは溌剌とした女性一人だけだった。
中年と言うには若々しく、料理の邪魔にならないようにか、栗色の髪を団子にしてまとめている。仕込みの準備をしていた女は、テンジャクを見てしかめ面を浮かべた。前掛けを付けたまま厨房からすたすたと近寄り、びしりと牡丹の隣に立つ男へ指さす。
「アンタ、こんな時間にもう休憩かい!?」
「違う。働き手を連れてきただけだ」
強気な物言いに、ひるまずテンジャクは言い返す。あの鋭い眼差しが、彼女の前ではやや緩んだものへ転じていた。牡丹の方に視線をちらりと向けてから、遅れて紹介する。
「こいつはアトリ。俺の女房だ」
テンジャクの妻は、随分と強気な女であった。初対面の牡丹を前に、遠慮のない眼差しをがんがん突き刺してくる。
「以前、手伝いが欲しいとぼやいていただろう」
「そうは言ってもねえ。こんな細っこい腕で給仕なんかできるのかい?」
弱っちい小娘はお断りだよと言われ、牡丹は自分の小さな手をじっと見つめる。テンジャクは言うまでもなく強そうであるし、アトリもがっしりとした体つきで、脆そうには見えない。
けれどここで引いては、牡丹は仕事ができず、無月に奢ってあげられない。何度か拳を握り締めて気合を入れてから、容赦のない視線を真っ向から受け止めた。
「一人でも、大抵の事はこなせるよ。足手まといになるためじゃなくて、役に立ってお金を貰うために来たんだ」
「言うじゃないか。いいね、気の強い子は好きだよ」
臆せず言い返すと、アトリはにやりと笑った。こうして牡丹の新たな仕事が始まることとなった。
◇◇◇
牡丹の仕事は、専ら給仕であった。注文を聞き取り、注文の品を運び、金勘定をする。畑を耕し提灯を作るのとは全く違う内容は、新鮮であった。結構体力を使う仕事にまごついたのは最初だけで、数刻と経たぬうちに、牡丹は宣言通り役に立つ新人の座を手に入れたのだった。
腕が痺れそうなのを顔には出さぬまま大皿を運ぶと、客が破顔して礼を述べた。
「ありがとね、牡丹ちゃん」
その言葉にむずむずする胸のうちを押さえ、牡丹は黙って頷く。何を言われようとどうでもいいと思っていたのに、褒められたり感謝されるたびに、むず痒い気分を味わっていたのだ。
「アンタ、やるじゃないか。見直したよ」
束の間手が空いたアトリが、おたまを片手に感心する。
「泣き言ひとつあげないなんて、根性あるじゃないか。親御さんの育て方がよかったのかねえ」
「育て、方……」
はてと牡丹は考えた。親の事は忘れてしまっていた。どうだっただろうかと思い出そうとしていると、視界に靄がかかった。
まばらに座る客の合間を縫うように立つ影の頭部に、ぽっかりと穴が空く。
『──人を当てにするんじゃない』
『でなきゃ──みたいな気味の悪い───なんて──』
「牡丹、どうかしたのかい?」
声を掛けられて、はっとする。ううんと首を横に振り、胸に手を当てて軽く目を閉じた。
昔はもっと視界が濁ることが多かった。それを師匠に伝えるたびに、穏やかな調子で何度も同じ言葉を唱えてくれた。
それはお前が考える必要のない事だ。気にせずともいい。
そうっと目を開ける。アトリの心配そうな顔だけがそこにあった。
「今はそんなに混雑してないから、少し休憩したらどうだい」
「平気だよ」
疲れていても、仕事に支障をきたすほどではない。牡丹が言い返すと、アトリはお玉を持っていない方の手でびしりと指をさしてきた。
「アンタの働き方には大体満足しているけど、その面はいただけないね」
仏頂面を指摘され、牡丹はこてんと首を傾げる。てきぱき働く新人は、大層愛想がないのであった。確かにアトリは客によく笑顔を見せ、明るく声をかけている。
「いいじゃねえかアトリさん、その子十分可愛いぜ」
「そうそう、年増より頼んだもの持ってくるの早いしよ」
「誰が年増だ! 盛り付けの量を減らしてやろうか!?」
ついでに客を怒鳴ったり叱りつけたりもするけれど、皆むしろその空気を楽しんでいるようだった。牡丹の背中を軽く叩き、アトリは明るい笑顔の手本を見せる。
「ほら、疲れて腹が減ってる奴らを笑顔で労ってやんな」
「……分かった。やってみるよ」
笑顔で労わる。そんな事は無月相手にしかした事がない。師匠にみたいに振舞えばいいのかな、と牡丹は思い立ち、別の皿を持ってゆく。野菜炒めから上がる湯気に男女数名が顔を上げたところで、ふわりと口角を上げた。
「沢山食べて、お腹いっぱいになってね」
今まで真顔だった女が見せた突然の笑顔に、客の表情が驚きで固まる。その隙に、一番近くにいた客に顔を寄せた。
「疲れた顔してるね。大丈夫?」
「あ、ああ。この位大したこたあねえぜ」
「本当? 肩揉もうか? 頭撫でようか?」
「牡丹っ、待ちな! うちを別の店にする気かい!?」
アトリから制止の言葉がかけられ、はてと牡丹は首を傾げた。笑顔で愛想よく接したのに、何がいけなかったのかさっぱり分からない。
「極端すぎるよ。ここまででれでれしだすなんてねえ」
「師匠が相手だと、いつもこんな感じだよ」
「……男かい?」
「うん」
牡丹が頷くと、なるほどねえとアトリは得心したように頷いた。我に返った客たちが、いいじゃないかと野次を飛ばす。
「笑うと一層可愛いじゃないの!」
「なあなあ、だったら腰をちょいと揉んでくれや!」
「うちの手伝いに鼻の下を伸ばすんじゃない! 奥さんに言いつけるよ!」
またむずむずしだす心地に戸惑っていると、客に大声を上げていたアトリが今一度指で顔を刺してくる。それ、と指摘するとにやりと笑った。
「今の顔。ほどほどに笑う位でいいんだよ」
「……あたし、笑ってた?」
「ああ。ちょっぴりね」
自覚のない顔を、自らの指で突ついてみる。指摘されても、いまいちぴんとこない。ここに師匠がいたら聞けたのにな、と牡丹は残念に思った。
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