二章
第一話
旅というものを、牡丹の記憶の限りでは経験したことはなかった。慣れぬ身には行脚が堪え、夜にはいつも疲れてすぐ寝入っていた。
遠出に不慣れなのは無月も同じらしく、時折転びそうになりふらつきながら最後尾をついて行く様は、牡丹よりも体力の低さを露見させていた。
一方セイは元気なもので、旅にも慣れているらしかった。疲れで言葉少なめになる二人を鼓舞するように明るく声を上げ、夜の見張りを行ってくれた。彼がいなければ、目的地にたどり着く事もできなかっただろう。
「見えてきたぞ。あれがオレの国だ!」
はしゃぐ声に、牡丹は重たい頭を上げる。視界を遮る木々よりも高い壁。人の作った防壁が、いかめしくそびえ立っていた。それに加え、何人もの武器を構えた人間が警備を行っている。
壁の隙間に造られた大きな木製の門が、国の入り口らしかった。見張りの男が、こちらを見て目を丸くする。視線の先にあるのは、ようと気軽に挨拶するセイの姿であった。
「セイ様が帰ってきたぞ!」
「テンジャク様に至急報告しろ!」
慌ただしく門番が伝令を飛ばすのを見て、牡丹は首を傾げる。隣では無月が苦笑と呆れを混ぜた表情で、旧友に視線を送っていた。
きしむ音を立て、門が開く。中から現れたのは、武装した男女数名であった。先頭を歩く男は黒髪に白が混じっていて、セイよりも年上に見える。右目を眼帯で覆っており、片目だけの眼光は鷹の如く鋭い。背中に背負っている白塗りの棍は、色は違うがセイのものと酷似していた。
「よう、元気にしていたか、テンジャク」
テンジャクと呼ばれた男が、朗らかな挨拶に眉間の皺を深くする。客人二名には目もくれず、男はセイの胸倉を掴んで引き寄せた。
「セイ、出かける時は日程や行先を告げろといつも言っているだろう!」
「なあに、オレがいなくとも数か月位は平気だろう?」
「国の頭が、勝手にふらふらいなくなるのが問題だと言っている!」
牡丹は目を丸くする。国の頭、という言葉が何を意味するかは知っている。テンジャクの台詞通りなら、セイがこの国で一番偉い存在、という事になる。
「まあそうカッカするな。助っ人を連れて来たんだ」
セイは胸倉を掴む手から逃れると、二人を両腕で抱えた。そういうわけで、と豪快に笑う。
「ここがオレの国、クザンだ!」
胸を張って宣言する様は、国の長らしく見えなくもなかった。
◇
クザンは、鉱山の近くに構えられた国だ。鉱物を他国に輸出しているため、外との交流も多い。あちこちから溶解炉の煙が上がり、金槌の音がひっきりなしに響いてくる。牡丹たちのいた所とは全く違う、人の熱気に溢れていた。
何よりこの国の人間は、牡丹を注視しない。村ではいつも蔑みの視線が突き刺さっていたが、ここでは偶に驚いたような視線を送られる位だ。それもすぐ興味を失い過ぎ去っていく。他国との交流が多いがゆえに、茶や黒以外の髪や眼が珍しいものではないのだろう。
人が多いと、あまり好きではない。そう思っていたけれど、こうやって無関心に通り過ぎるだけの人の多さは嫌いではないな、と牡丹は思った。
牡丹たちが連れてこられた屯所は、通りとは別の熱気が籠っていた。どこかしこから鍛練の掛け声が轟き、空気がひりついている。物々しい雰囲気は、頭の帰還により明るい空気も足されていた。
「お頭、お帰りなさい!」
「隊長っ、今度手合わせしてくださいよ!」
「おう、帰ったぞ! 手合わせは後でいくらでも受けて立ってやる!」
どの声掛けにも朗らかな相槌を打つセイは、随分と慕われているらしい。賑やかな歓迎の声をいなしつつ一室に通されてからようやく、先導していたテンジャクは足を止め、客人二人に向け頭を下げた。
「俺はテンジャク。うちの兵の副隊長で、そこの隊長の補佐をやっている」
会話に上がった頭兼隊長のセイは、呑気に欠伸をしていた。先程出奔を咎められたのは、ちっとも堪えていないらしい。咎めた方もその反応には慣れているらしく、諦めと気安さが滲み出ていた。
「この強引な男に振り回されて、さぞかし疲れただろう。暫しここで、羽休めをすると良い」
片方だけの眼差しが、二人を貫く。言葉は労わっているのに、眼光は警戒を潜ませていた。何となく緊張したまま、牡丹は師に倣い簡単な挨拶を済ませた。
「二人を招いたのは、力を借りるためだ。という訳で、後は頼む!」
「また碌に説明をせず連れて来たのか……」
頭から丸投げをされ、テンジャクは大きくため息をつく。このような状況はよくある事らしい。どこから話したものかとぼやいてから、簡単な国の説明から取り掛かった。
クザンは、常日頃から鬼の脅威を自衛で防いでいる。鬼との小競り合いは日常茶飯事のこの国に、最近毛色が違う鬼が攻めてくるようになったらしい。
「頭のいい統率ができて、鬼共の動きが前より小賢しくなった。頭が出奔する前から、膠着状態が続いている」
用心深い鬼共だと、テンジャクは眼帯に覆われた目を掻いて吐き捨てる。あいたまなこでは、なよなよとした体つきの男と小柄な少女を推し量っていた。
「お前が連れてきたからには、見かけより戦力になるのだろうな」
「おお、勿論だ。何しろムゲツは──」
「セイ」
短い一言。静かながらも、続きを堰き止めるには十分であった。憂いを混ぜた瞳を伏せ、無月は小さく息をついてから口を開き直す。
「仕事の段取りは、お前と私だけで行わせてくれ」
「師匠、あたしは何を手伝えばいい?」
牡丹が当然とばかりに話に加わろうとすると、頭に手を置かれた。いつもの如く、宥めるように撫でられる。
「何もしなくていい。これは私にしかできない仕事だ」
あの提灯のように無月が血を流す類の仕事であれば、確かに牡丹では役に立てないだろう。いつものように大人しく引き下がろうと思ったが、自分ひとり遊んで待つなど気が引けた。
不満を隠し切れない牡丹を見かねて別の提案をしたのは、テンジャクだった。
「ならその間、お前は別の仕事をしてはどうだ」
丁度人手を探していた所だと言われ、ちらりと無月を窺う。穏やかな眼差しはけれど、とりつく島がなかった。
「こちらの事は何も気にしなくていい」
「だそうだぞ。なあに、給金を貰ったら、ムゲツをねぎらって美味いものでも奢ってやればいい!」
続いたセイの言葉に、それはいいかもしれないと牡丹は思い直した。弟子がようやっと頷くのを見て、師は微笑む。
それはほっとしたような、或いはどこか寂しそうな笑みだった。
◇
テンジャクと牡丹が部屋を出ていくのを見送ってから、セイはちらりと笑みを消した横顔に視線を向けた。
「弟子にもだんまりか」
「……仕方がないさ。そもそも言う必要がないだろう」
その呟きに諦めきったものを感じ、金色の瞳が歪む。不満を露わにした態度は僅かな間だけだった。すぐにいつもの豪快な笑みへと戻り、本題を話し始める。
「オマエには、うちのかがり火全部に手を加えて欲しい」
暫くそれで鬼を避け、向こう側が痺れを切らして何らかの行動に出たところを叩く算段らしい。無月にとっては単純な、慣れた仕事ではある。ただクザンの周囲に位置するかがり火全てとなると、灯篭よりも数が多い。少々時間がかかる仕事になりそうだ、と思った。
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