第八話
微かに入り口の戸が立てた物音で、牡丹は瞼を開けた。夜更けの家の中は静まり返っていて、普段は時折木々が擦れる音やセイのいびきが聞こえるばかりだ。牡丹は枕元に置いておいた提灯を手に取ると半開きにしていた自室の戸に手をかけ、そうっと玄関へ向かった。
予想通り、無月の草履がなかった。入口にかけた提灯に見送られつつ、牡丹は家の外へと足を踏み出した。
突然大量に作ることになった提灯。無月が隠れて急ぎ下準備を済ませるなら夜だろうと、踏んでいたのだ。見覚えのある洞窟の前で、牡丹は一旦足を止めた。提灯の明かりを消し、今まで以上に気配を潜めて先へ進む。
狭い入口をくぐった先。仕切りの布切れの向こう側から、薄っすらと行灯の明かりが漏れていた。布の切れ目に片目を当て、息を潜めて中を窺う。
無月は正座し、眼前で広がる白い和紙を見つめていた。行燈から滲み出る光が、青白い頬や薄く光る金の髪、淡い紫色の瞳をゆらりと闇から浮かび上がらせる。人目を憚った丑三つ時の秘め事は、異質な容姿も相まって奇怪に映った。
懐から出されたものに、牡丹は息を飲む。右手に持ったそれは、小ぶりな短刀であった。鈍く光る切っ先は左の手首に添えられ、ぴんと張り詰めた空気を裂くかの如く引かれた。
赤いしぶきが傷口より溢れ出る。てらてらと光るそれが手首から離れ和紙に触れた途端、ごうっと光が舞った。紙全体が燃えるかのように、鮮やかな燐光に包まれる。光源が強まった瞬間、瞳の奥が炎の色を反射し紅く輝く。数秒もしないうちにそれは止み、残ったのは先程よりも鮮やかさを増した赤い和紙があるのみだった。
じっと和紙に注いでいた視線が、外される。長い金糸がゆらりと動き、布の向こう側に隠れるまなこを見通すかのように、つうと目が細められた。
「おいで」
いつもより低い声音が、じくりと鼓膜から滲み入る。それに誘われるように、牡丹は仕切りから姿を現した。
和紙のすぐ傍で膝をつくと、おもむろに指を伸ばす。刃物で傷ついた、手首へと。
「師匠、傷痛む? 手当てしようか?」
「いや、この位ならすぐ塞がるが……そういうことではなくて、だな」
血で汚さぬためにか、彼は身体を捩って牡丹の指から逃れ、傷口を着物の裾で隠した。鮮やかな眼差しから目を背け、戸惑いながらも秘密を明かす。
「これが、お前の知りたがっていた火灯しの製法だ」
「あたしも血を垂らせば、同じことが出来る?」
「できない。というか、他に言う事があるだろう」
無月は血の気の失せた横顔を歪め、いつも通りの弟子へ戸惑いを吐き出した。
「怖くないのか。気味が悪いだろう……こんなもの」
「別に。師匠なら血が燃えても、毒を吐いたり手足が八本生えても好きだよ」
牡丹はけろりと言った。全て、紛うことなき本心だった。今までの師匠がしてくれたことに、変わりはないのだから。
自らの血液を利用して作られる明かり。提灯の大量生産を渋るのも当然だと、牡丹は納得がいった。毎回肌に傷をつける仕事など、無月一人では体に堪えよう。それを肩代わりできないのを、残念に思った。
「やっぱりあたし、師匠の妹とか娘になりたかったな」
血が燃えるのは、火灯しの家系だけなのだろう。他人の子供であることを悔しがると、苦笑が返って来る。
「……私も、そう思うよ」
無月は行灯へ視線を落とし、小さな声音で同意した。
◇◇◇
それから牡丹は旅立ちに向けて、提灯作りに励んだ。あまり急いで多量に作っては師匠の負担になるのではという懸念はあった。だが以前より顔色が悪くなり、偶にふらついていると牡丹が指摘しても、お前が気にする必要はない、気のせいだと言うばかり。ならばせめて自分でもできる仕事で楽をさせてあげたいと、提灯の組み立てを普段以上に精力的に手掛けた。
弦次郎が夜訪ねてきたのは、せわしなく準備を進めている最中であった。彼はセイの姿に面食らったものの、客人だと無月から説明を受け、何事もなかったかのように笑顔を浮かべて話を切り出した。
「ここを暫く離れるそうですね」
「ああ。どちらにせよ、当主や跡取り以外とは村の者と無闇に関わらぬ決まりだ。お前に協力はできんよ」
最初の夜と同じく首を横に振る無月に、弦次郎は悔しそうに項垂れた。一貫して変わらぬ態度に、説得が出来ないと理解したのだろう。
肩を落とし、ひとりでとぼとぼ夜道を帰る弦次郎の姿が脳裏をよぎり、牡丹はつい腰を上げていた。
「師匠、弦を村まで送ってくるね」
その言葉に、無月は一瞬唇を引き結んだ。客人が驚いたような表情で牡丹を見つめているのを視界に納め、ゆるゆると息を吐く。
「気を付けて行ってくるんだよ」
いつもより優しい声音で、無月は告げた。うんと牡丹は頷き、行くよとすたすた玄関へ向かう。迷いのない背を、弦次郎が遅れて慌ただしく追いかけて行った。黙って酒を飲んでいたセイが、閉まった戸の方へと瓢箪を揺らす。
「いいのか?」
無月は、何も答えなかった。
◇
先程までがっくり落ち込んでいた弦次郎は、大分気を取り直しているように見えた。連れがいる間は、情けない姿を見せまいと振舞っているのかもしれない。
「何故、同行してくださったのですか」
弦次郎の問いに、提灯で照らされた地面を踏みしめつつ牡丹は考える。確かに最初の夜は、連れ歩きなんて微塵もする気にならなかった。喜一郎に関わるなと釘を刺されておきながら、何故自分から近寄ったのか。
掟を破って村のために奮起したというのに、何も成せなかった男を憐れんだのか。或いは、単に放っておけなかったのか。
「……手を引っ張ってぶん回したくなったから?」
ばきんと小枝を踏み折る音が、闇に混ざる。牡丹は多分、励ましたかったのかもしれない。ともすれば子供扱いのような内容を、けれど弦次郎は好意的に受け取った。
「貴方は随分、頼もしい。私とは大違いだ」
薄明かりに照らされる横顔に、影が差す。黒々とした靄が、夜の帳に重ねて覆いかぶさった。表情が見えなくなった顔が、苦笑する。
「これでも努力はしているのですが、中々立派な男には成長できないものですね」
ぎゅっと瞼を閉じてから開き直すと、奇妙な影は瞬きの間に消え失せていた。牡丹は何事もなかったかの如く顔色を変えぬまま、足を止める。
協力という名目があるにせよ、自分に優しくしてくれて、村のためを思って行動する男を、牡丹は悪くは思っていない。ひょいと手を伸ばし、自分より高い頭にぽんと置いた。
「弦はしっかりしてるし、いい奴だよ。大丈夫」
師匠がいつもしてくれるように撫でてやると、見送ると告げた時以上に彼は動揺した。大げさなくらいにのけ反り指から離れると、真っ赤になった顔を隠すべくせわしなく頬を掻きだした。
連れの動揺をきょとんとした顔で観察している所で、そう言えばと約束事を思い出した。
「火灯しの秘密、分かったよ」
弦次郎になら秘密を教えても大丈夫だろう、とつまびらかに明かす。真面目な内容に、赤面から戻った弦次郎は考え込むように顎に手を当てた。
「にわかには信じがたい話ですが、火灯しの製作品に特別な力があるのも事実。確かにお一人では無理もできませんね」
「うん。弦を手伝えないのは、決まりだけが理由じゃないよ」
だからそこまで気にするなという意も籠めて言うと、弦次郎は正しくそれを受け取った。
「教えて下さり、ありがとうございます。私は、貴方との約束も果たせていないというのに……」
「帰ってきたら、師匠に優しくしてくれたらいいよ」
暫くすれば戻ってくるのだから、その時約束を果たしてくれたらいい。牡丹の言葉に弦次郎は顔を上げ、足を止める。
視線の先には、村を守る灯篭の明かりがあった。送るのはここまでだ。
「じゃあね」
別れの挨拶を済ませ、牡丹はすたすたと歩きだす。背後に感じる明かりが見えなくなりかけた所で、今一度声を掛けられた。
別れた場所から一歩も動かぬまま、弦次郎がこちらを見つめていた。
「よければ、私も、貴方たちと……」
逡巡する唇が震え、続きを紡ごうとしては止まるのを、牡丹は黙って待つ。意図を察せぬままに耳を傾けていると、迷いを打ち消すように彼は大きく息を吐いた。
「旅の道中、どうか、お気を付けください。……それと」
「それと?」
牡丹が促すと、茶色い瞳が地面へと視線を落とす。ぐっと拳を強く握り、意を決したように弦次郎は顔を上げた。
「ここへ戻ったら、また私と会ってくれますか」
「弦がいいなら、別にいいよ」
もう協力の話は終わったのに、なおも禁を破って彼が自分に会いたがる理由が、よく分からない。彼とはどうも話しやすいので、牡丹としても、別に嫌ではなかった。
とっとと帰ろうとして、一度だけ振り返る。灯篭の明かりに照らされた着物姿が、柔らかな眼差しで見送っていた。
重なるようにして影が現れ、視界を一瞬逸らした隙に、それは消えた。
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