第四章

第一話

『ただの刷り込みだよ』


 酒を一口飲み、無月はセイへ言った。牡丹が家を出ている間に交わされた、酒の席での本音。気怠そうにため息をつき、無月はぼそぼそと明かす。


『私が拾った時、あの子は鬼に心の大半を食われていた。あのままでは遠からず死ぬか、鬼の器と成る所だった』

『だからオマエが助けてやったという訳か』


 無月はこくりと頷く。後で調べてみれば、どうやら両親が死んだ後、赤い目のせいで親族からも爪弾きにされたらしい。更には村を出て彷徨っている間に目を付けられたのであろう、虚となりかけた心の内には鬼が隠れていた。


 無月の灯は鬼を遠ざける。力の一部を仕込んだ明かりは縄張りを主張するようなもので、力の差を本能的に察した弱い鬼であれば、逃げていくのだ。


 ただし心を食う鬼は、弱い内は実体がない。怯えこそすれ、焼かれぬと理解した鬼は雌伏の時を待っていた。村で預けられる相手はおらず、よその国に押し付ければ心が食いつくされる可能性があった。


『殴れる形がないと、オレも殺せんからなあ』


 クザンへ頼らなかった理由を勝手に納得され、無月は苦笑する。セイは強い鬼だ。倒せずとも傍にいるだけで、多少なりとも鬼の動きを抑える事はできただろう。とはいえ当時の自分は誰かに助けて貰う気など毛頭なく、一人で対処するつもりだった。

どうせ数年もすれば自立して、自分から離れ村に戻るだろうと高をくくって。


 それが過ちだったと、後で気付いた。


『あの子は私だけの傍にいた。欠けた心が戻るには不十分だったのだろうな』


 殆ど誰も訪ねてこない家に、たった二人。心が育つには、あまりに得られる経験が少ない環境であった。


 もう一口酒を飲むと、無月は眉間の皺を深くした。酒気で頭痛がしてきたからだけではなかった。


『牡丹は、私を別の誰かと重ねている』

『何だと?』


 驚いた聞き手の反応に、顔を歪めて笑い返す。


 ずっと前から気付いていた。牡丹が見ているのは、自分ではないと。


『よく面倒を見る、親しい誰かがいたらしい。私はその代わりだよ』


 損ねた記憶は僅かな残りを頼りにして、別の誰かに置き換え縋りついた。代替品を得た心はそれを軸にして、再び花開く。こうして、たった一人以外を忘れ去った心は、歪な成長を遂げる。無月が相手の時だけは元の性格のように振舞う反面、他への関心が薄くなってしまったのだ。


『あの子は偽者に依存しているだけだ』


 唯一の心の拠り所を違えたまま、懐いてくる少女。好意の発端が何であるかも、自覚せぬままに。


 滑稽な顛末さと無月は自嘲じみた笑みを浮かべ、杯の中身を飲み干した。




◇◇◇




 暗闇を照らすべく、蝋燭の灯が揺れる。明かりに誘われた蛾が燭台に近寄り、蝋の受け皿で羽を休めようとした。受け皿に溜まる赤い液に足が触れた途端、その身体は突如として炎に包まれた。蛾が灰へ転じるのを、無月はただ虚ろな眼差しで見つめる。哀れな虫を助けてやるため、腰を上げる事はできなかった。両手が壁に打ち付けられていたからだ。


 広げられた両掌にはそれぞれ黒ずんだ釘が打たれ、座り込んだ足は立つ事を許されない。穿たれた掌から、どろりと鮮血が流れ落ちる。床に置かれた皿に雫が溜まり、血の池が今もなお水かさを増し続けていた。


 微かな息遣いに混じる水音と、迷い込んだ虫の焼ける音。座敷牢に幽閉されてから、静寂を破る音は限られていた。無月は嘆きも呻きもしなかった。両手を貫く苦痛に耐え、大半の時を、目を閉じて項垂れ過ごしていた。


「おお、鬼の血が溜まっているぞ!」


 牢に踏み入る者の気配がしても、無月は目を閉じたままでいた。幾人もの足音に混じり、錫杖が金音を響かせる。


「回収せよ。血には触れぬように」


 しゃがれた声が、取り巻き達に指示を飛ばす。血の匂いが濃厚に漂う座敷牢にて、連れの者達の心酔した笑顔は異様な空気を増長させていた。


「巳曽良様のお陰で、安全に鬼を捕らえられております」

「あとは儀式を終えれば、この村も救われましょう」


 注意深く回収された皿の代わりに置かれる、空の器。その隣にゆらりと、袈裟姿がしゃがみ込んだ。


「ぬしらは下がれ。我は今一度術をかけ直す必要がある」


 取り巻きの案じる声が遠のき、扉が閉まる。巳曽良はそれを確認してから、懐から長い釘を取り出した。眠る振りなど許さぬとばかりに、巳曽良は手首へ釘を打ち付ける。更なる激痛に抗えず、瞼を降ろしたままの表情が歪んだ。


「いい加減力を抑えられぬようだな」


 布に覆われた顔から、複数の嘲る声が響く。女とも、男とも、子供とも、老人とも取れる声であった。或いは、その全てが混ざり合っていた。


 前髪を掴み、無月は顔を上に向けさせられる。皺が無数に刻まれた指が、強引に閉じた瞼をこじ開けた。


「いい眼だ。正に『赤鬼憑き』に相応しい!」


 瞼に秘されていたのは紫色、ではなく。燃え盛る炎の色を宿していた。無月は何とか顔のみを動かして、指から逃れる。赤い目は嫌いだった。


 只人だった頃は、蒼い目であった。

 鬼憑きとなってからは、紫へと転じた。

 そして力が発露すれば、赤へ染まる。


 金髪や蒼眼も珍しくあったため、この村に流れ着くまでも大半から爪弾きにされていた。けれどそれ以上に、赤い目が無月は嫌いだった。血の如く染まった瞳は、自分の罪を思い起させるから。


 喉を震わせ、擦れた声を絞り出す。


「村の皆は……無事か」

「ぬしの血のお陰でなあ。約束は守るとも」


 ならばいい、と無月は目を閉じて呟く。


 クザンに向かう前から、虚空衆は鬼憑きの身柄を狙っているらしいと気付いていた。暫く身を隠すがよろしいと、喜一郎からつっけんどんな言い方ながらも勧められていたのだ。


 時を置けば彼らも諦めて別の土地に向かっているだろうと甘く見ていたものの、虚空衆は時間をかけて村の大半を掌握していた。影で庇ってくれていた喜一郎までも、巳曽良に心を食われて操り人形と化していた。村人の命を盾にされては、幽閉されようと逆らう気など起きなかった。


「血抜きも、そろそろ頃合いか」


 緩やかに血を奪い落とされ続け、力を隠し切れぬほど弱ってきた姿に、巳曽良は満足そうな笑い声をこぼした。


「もう少し弱ったら、ぬしの本懐を遂げさせてやろう」

「…………」

「死にたかったのであろう?」


 げらげらと、布の裏で笑い声が重なる。無月はただ沈黙を返した。


 強すぎるがゆえに、簡単には死ねぬ身体。無月に力を与えた鬼は、それに苦しんでいた。全てを灰塵に帰してしまう炎を呪い、鬼は他者へ押し付けんとした。力への渇望に自ら集った多くの鬼や人間が、受け止めきれず命を落とした。


 無月も甘言に引き寄せられた一人であった。強い力があれば、唯一友が出来たこの村を鬼から守れる。きっと皆も認めてくれると、信じていた。


「私を食う気か」


 その問いに、布がぼこりと浮かび上がる。どうやら幾つもの口が舌なめずりをしたらしかった。


「やめておけ。生半可な器では、この力に耐え切れん。耐えたとして、制御も難しいだろうよ」


 自分のように、と無月は心中で付け加える。


 かつてこの地を襲撃した鬼の群れ。守らなければと放った業火は、村をも飲み込んだ。鬼の灯は、人間の身に余ったのか。或いは、鬼憑きとなったばかりで未熟だったが故か。制御し損ねた炎は、唯一の友人までも焼き尽くした。


 端日家の身内を殺した自分に復讐するでもなく、友の兄弟はただ罪滅ぼしを命じた。真に悔いるならば、その命尽きる時まで、今度こそ村を守り通してくれ、と。


「案ずるな、ぬしには礎となってもらうだけだ。全ては同胞と人の為にな」


 巳曽良はそう言うと、もう片方の手首へ更なる釘を打ち込む。苦悶の声を僅かに漏らす鬼憑きに満足して、ようやく法衣姿が立ち上がった。


「ぬしの代わりに、我らが村を永劫に守ろう。その力、心置きなく次代に譲られよ」


 足音が遠のいていき、苦痛を耐えるだけの時間が戻る。俯いた視線の先に、また溜まり始めた血の泉が映った。


 自分と、少女と同じ色を湛えた赤だった。


「……牡丹」


 ゆっくりと瞼を閉じる。暗闇の中、祈るように胸の奥で呟いた。


 どうかあの少女がこの村へ戻ってこないように。

 もう二度と自分と会う事の無いように、と。

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