第6話 告白

 ブリタニクス卒倒の場に、オクタヴィアも居合わせていた。

 彼が倒れた瞬間、すべてを悟ってしまった。衝撃のあまりに意識を失い、気がついたのはもう、夜半頃だった。


 発熱しているのだろうか。全身が、だるい。

 クラウディウスの体質を受け継いだのか、オクタヴィアもブリタニクスも、体が弱かった。体の調子だけではなく、精神的なことでもよく熱を出してしまったから、今の状況は当然のように思える。

 ブリタニクスはもう、こうやって寝込むこともないのだ。

 じわりと、目頭が熱くなる。寝台の上、毛布に包まりながら両手で顔を覆った。


 ――カタン。


 小さな物音が、した。同時に、人の気配もする。

 オクタヴィアが寝かされているのは、夫婦の寝室だった。本来は二人で使うはずだけれど、ルキウスは一度も近づいたことがない。別に寝室を作り、そちらに生活の拠点を置いていた。

 今更、ここに来るとは思えない。けれど、他の誰が皇帝夫妻の寝室に許可なく入って来られるというのか。


「――どうして?」


 寝台の前、足を止めたのはやはり、ルキウスだった。

 薄暗い中、影だけでもわかる。それほど、恋い焦がれた相手だった。

 だからこそ、問わずにはいられない。


「今朝、ブリタニクスは言っていました。義兄上が僕を皇帝にしてくれる、二人でこのローマを治める、と」


 嬉しそうな笑顔が思い出されて、また、涙が零れ落ちる。


「ブリタニクスは、あなたのことを本当に尊敬していました。信じていました。なのにあなたは、あの子を――裏切った」


 殺した、とは言いたくなかった。罪を責められたルキウスの怒りを恐れたのではなく、ブリタニクスの死を、口にしたくなかったのだ。

 ルキウスとブリタニクス。二人は仲の良い友人だと、思っていた。

 幼い頃から、熱を出して寝込むブリタニクスを、何度も見舞いに来てくれた。勉強を教え、一緒に遊んでくれる優しい兄だと、ブリタニクスも慕っていた。

 ブリタニクスに向けられる笑顔には、親愛の情が溢れているように見えた。美しい顔が優しくなるその瞬間が、好きだった。


 まさか、このようなことになるとは。


 いくら政治的なしがらみがあるとはいえ、あれほど可愛がっていたブリタニクスを殺すなど、あり得ないと思っていたのに。

 ブリタニクスの信頼を、もっとも酷い形で裏切ったルキウスを、許せない。

 なのに、焦がれた想いも、消えない。

 冷淡に見えるけれど、時折見せてくれる不器用な優しさが、どうしても忘れられなかった。


 否定してほしい。そうとも思っていた。

 ルキウスが毒殺犯だったのだとしても、認めてほしくない。一生疑い続けることになったとしても、少しは憎しみが和らいでくれるかもしれない。


「――確かに、その通りだ」


 寝台の端に腰を下ろし、ルキウスは小さく呟く。

 ――認めたのだ。ブリタニクスを殺したのは、自分だと。


「酷い!」


 自嘲めいた様子も、気にならなかった。体を起こすのと同時、オクタヴィアは叫びを上げる。

 自分が、これほどまでに激高できるとは思っていなかった。


「それでは、ブリタニクスの気持ちはどうなるのですか。あなたを慕った、信じた、あの子の想いは――!」

「約束は、守る」


 オクタヴィアから見えるのは、横顔だった。

 いつもと同じ、神が造ったかのような美貌。けれど表情は虚ろで、声にも覇気がなかった。常の凛とした空気は、微塵も感じられない。

 視線の定まらぬ目つきは、空恐ろしくすらあった。

 くすりと、笑みとも呼べぬ小さなものが口の端に滲む。


「ブリタニクスとね――君を幸せにすると、約束した」


 短衣トゥニカの留め具を外し、衣服を乱れさせたルキウスに腕を掴まれ、身が竦んだ。


「――いや……っ!」


 クラウディウスが亡くなった直後、一度だけでも情けをかけてくれと言ったのはオクタヴィアだった。

 それを彼女の幸せだと、ルキウスは理解したのかもしれない。そして自分が殺した義弟の願いだからと、凶行に及ぼうとしているのだろうか。

 このようなときに望めるはずもないのに。

 逃れようと身をよじるオクタヴィアを抱きすくめて、ルキウスが耳元に囁く。


「違う。前にも言ったはずだ。君を抱くことはないと」


 え、と目を上げるオクタヴィアの手を、ルキウスは襟口から自分の胸元へと衣服の中に滑り込ませた。

 手に伝わってきたのは、柔らかな感触――男にあるはずのない、胸のふくらみだった。


「――まさか」


 振り絞ったのは、短い言葉だった。

 真相を知ったことを悟ったルキウスが、オクタヴィアの手を離す。


「驚いただろう」


 衣服の乱れを直しながら、ルキウスは寝台の端にまた、座り直す。その姿を、ただ呆然と見つめていた。

 男にしておくのはもったいないほどの美貌の主だった。初めて見た時からずっとそう思っていたけれど、まさか本当に女だったとは。


「そのこと――ブリタニクスは」

「知るわけがない」


 酷薄な笑みを浮かべた、冷淡な口調だった。

 ――否、そう見えただけかもしれない。伏せ気味の瞳にはまだ、虚ろな光が浮いていた。

 むしろ、自嘲なのだろうか。


「ブリタニクスはもちろん、義父上ちちうえもだ。だからこそ皇帝になれた。このことを知っているのは帝国広しと言えど、母上と当の私、そして君だけだ」


 覇気のない目つきで、オクタヴィアを一瞥する。

 何故今、それを教えてくれるのかと、問うことはできなかった。

 理由は、考えなくてもわかる。オクタヴィアを、殺すつもりなのだ。

 黙って殺すこともできる。それでも秘密をあえて打ち明けたのは、ブリタニクスへの罪悪感なのではないか。

 どうせ死にゆく者。死出の旅路への、せめてものはなむけのつもりなのかもしれない。

 オクタヴィアはそっと、目を閉じる。死んでくれと告げる、ルキウスの言葉を聞くために。


 ――けれど。


「あとは君の好きにしろ」


 続けられたルキウスの声は、予想もできぬものだった。

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