第11話 母

 ローマの新しき神、アポロンなるネロ――市民たちがそう称えていることは知っている。また、彼らが自分に向けてくれる好意もまた、事実ではあろう。

 だがそれは、果たしてルキウスの采配に対してであろうか。

 貧困層に目を向けたのは、ルキウス自身の考えだ。けれど好意を寄せてくれる市民たちですら、おそらくそう考えてはいない。


 傅育官ふいくかん、セネカ。


 幼い頃、母アグリッピナがルキウスにつけた男で、今では摂政の地位にある。

 彼の知識や弁論術は、万人が認める通りだ。今のルキウスがあるのは、セネカの教育があることは否定できない。

 けれど、ルキウス自身は彼に対してどうしても好意的になれなかった。


 ストア派の学者で、寛大や謙遜など、口にする言葉は立派だ。だが生活ぶりは、決して自らの思想とは一致していない。

 謙遜どころか、自らの手柄は誇大してひけらかし、あまつさえ他人の業績をも自分のものとする。


 そう、セネカはルキウスの政策を、自分が皇帝に懇願したのだと言って憚らなかった。


 思想や弁論術において、すでに名声を勝ち得ていたセネカと、若輩者の皇帝。

 市民のためになる政策を打ち出すのは前者だと、信じる者は多いだろう。


 これを、アグリッピナは望んでいたのだろう。

 アグリッピナは、セネカの名声を利用しようとしていた。

 セネカは、政治に関与するだけの権力を欲していた。

 利害は一致していた。だからこそ、幼いルキウスの家庭教師役を買って出たのだ。


 誤算はおそらく、ルキウスが二人に政治を任せなかったことだ。

 二人の、特にアグリッピナの前で、ルキウスは従順な子供だった。即位すればきっと、二人のいいなりになると思っていたのだろう。

 だが口出しは許さなかった。セネカにしてみれば、せめて業績を横取りするくらいしかできなかったはずだ。


 アグリッピナは、どちらもよかったのだろう。セネカでもルキウスでも、善政を敷きさえすれば、アグリッピナの先見の明を褒め称える声が出る。


 もっとも、不満はあるようだった。やれ処置が甘過ぎる、市民のために金を使い過ぎる、など、耳が痛くなるほどに苦情は言われた。

 そもそも、アグリッピナは政治に関与したいのだ。ひとまずは名声を得るだけで満足したものの、すぐに物足りなくなる。

 そうなればまた、不平をぶつけてくるのだ。


 ――このように。

 

「ご用でしたら、私の方から伺ったのに」


 わざわざお越し頂き、申し訳ない。

 言ったのは、遠慮ばかりではなく、本音であった。

 ルキウスには秘密があるから、私室には一人も使用人を置いていない。

 だがアグリッピナのところには、かなりの人数がいた。身内だけになることは、避けられる。


 それに、と背後に控えているオクタヴィアに視線を向けた。

 ルキウスとアグリッピナの不仲は、もはや決定的なものだった。その険悪な様に、優しいオクタヴィアは胸を痛めている。

 会見の場に彼女を立ち会わせることは、無用な気を遣わせる以外のなにものでもなかった。


「用があったわけではないの。ただ、会いたくなって。――それとも、用がなければ子供の元を訪れることすらできないのかしら?」


 ほらな。

 皮肉に、思わず苦笑が洩れる。

 今までもこうやって、嫌味や僻みに満ちた説教を受けた。その度に人を呼んだり、公務があるのでと言い訳しては逃げてきた。

 だからこそ、アグリッピナは訪ねてきたのだ。オクタヴィアの前で、ルキウスが自分を無下に扱うことをできないと知って。


「いえ。本当は私がお伺いしたいのですが、なかなか時間が取れず。来てくださって、嬉しい限りです」

「まぁ、そんなに忙しいの?」


 表面を取り繕って言ったルキウスに、アグリッピナは大袈裟なまでに目を丸くした。


「それはいけないわ。体を壊しては元も子もないもの。少し、仕事を配下に任せてもいいのでは? セネカなど、適任だと思うのだけど」


 おそらく、ルキウスの返しを予測してのだろう。その上で、自分の欲求を通すための台詞を用意していたということか。

 もっとも、先を読んでいたのはアグリッピナだけではない。


「――母上」


 いかにも傷ついた、と言わんばかりの表情を作って見せた。浮かべていた微笑みを消し、悲しげに眉根を寄せる。


「母上は、私を傀儡にでもしたいのですか? 自らの仕事を放棄し、部下に任せてしまう情けない皇帝になれと」


 アグリッピナが実際にそれを望んでいるのは、紛れもない事実だった。

 だが、さすがに認めることはできないはずだ。反抗もやむなし、とのきっかけをルキウスに与えることになる。

 かといって、否定もできないだろう。付け入る隙を、自ら潰すことになる。

 だからこそ、追い打ちをかけた。 


「母上は、市民が私のことをどう言っているのかご存知ですか? あのアグリッピナの子は、セネカの政策をそのまま実行しているに過ぎない、と。私が自ら指揮を取っていてさえ、こうなのです。もし実際にセネカに任せることになれば、私の名は地に落ちるでしょう」


 一旦言葉を区切り、いいえ、とさらに続けた。


「私の名だけならばまだしも、一緒に母上の名も貶めてしまう。私を育ててくださったのは、母上だ。非難はおそらく、私だけではなく母上の上にも降りかかる」


 自分のためではない、あなたのためなのだとは、白々しい。

 アグリッピナが、額面通りに受け取ってくれるなどとは期待していなかった。ただ、少なくとも敬意を表してくる子供の手を、振り払うことはできまい。

 もし振り払われたならば、こちらも出方を変えることができる。


 沈黙は、きっと長くはない。

 それでも長く感じるのは、睨み据えてくるアグリッピナの瞳に、恐怖を覚えているからに他ならなかった。

 結局、耐えられなくなって口を開いたのは、ルキウスだった。


「それでも傀儡になれと仰るのでしたら、私は皇帝を辞めます」

「――っ!?」


 息を飲んだのは、アグリッピナではなく、オクタヴィアだった。

 今までも不安げにこちらを見ていた彼女に、そっと目配せを送る。


「母上の名を汚さぬうちに、そう――」


 半歩ほど後ろに控えていたオクタヴィアと並び、その肩を抱き寄せた。


「彼女と共に、私を愛してくれている幸福の島、ロードスへと行き、自由を楽しませていただくことにします」


 あとは、あなたが選んでください。

 選択肢などないのに、言い放つのは人が悪かった。


 アグリッピナが、ルキウスを皇帝にするためにしてきた努力の数々は知っている。

 それが無に帰すことを、選べるはずがない。

 政治に関与はできないけれど、母后としての地位を守るか、それさえ失うか、どちらかなのだから。


 ギリ、と唇を噛みしめるアグリッピナに、一抹の虚しさを禁じ得なかった。

 血を分けた、たった一人の母と何故、このような会話しかできないのだろう。肉親にはもっと、相応しい話題もあるだろうに。

 睨み合いの視線を先に逸らしたのは、アグリッピナだった。


「――まぁいいわ。精々、皇帝のお仕事、がんばってちょうだいね。私の名誉のためにも」


 ふいっと顔を逸らすと、出口へと向かう。

 勝った、と思った。

 母はいつも、ルキウスにとって畏怖の対象だった。口答えなどできる相手ではなかった。

 その母に、言い勝ったのだ。ホッと胸を撫で下ろす。


 だが、それも長くは続かなかった。

 見送るためについて行くと、部屋を出たところでアグリッピナはぴたりと足を止める。


「そう、長くはないかもしれないけれど」


 顔だけで振り返ったアグリッピナの唇が、ニッと吊り上がる。

 背骨に、冷たいものが駆け下りた。

 絶句するルキウスをもう振り返りもせずに、アグリッピナは悠々と出て行く。そのゆったりとした様がまた、恐怖を駆り立てた。


「ルキウス、今のお義母様かあさまの言葉――」


 立ち尽くすルキウスの腕にそっと触れたオクタヴィアが、不安そうに呟く。


 ブリタニクスが死んだあの夜から、「ルキウス」と呼ぶようになっていた。

 ティベリウス・クラウディウス・ネロ・ドルスス・ゲルマニクス。

 アグリッピナとクラウディウスが結婚し、養子となって改名したルキウスの、現在の正式名である。

 今では母親でさえ、ネロと呼んだ。

 けれど、生まれた時よりずっと慣れ親しんできた「ルキウス」の方が、本当の名のように感じられていた。

 他の誰にネロと呼ばれても構わない。だがオクタヴィアには、「本当の名前」で呼んでほしいと思ったのだ。


 そう、大切な彼女にこれ以上心配をかけたくはない。


「心配いらない。いつもの脅し――きっと、負け惜しみだよ」

「でも――あなたにこのようなことを言うのはいけないけれど、私、お義母様が怖いの。ご自分の望みのためなら、何でもしそうな気がして」


 杞憂ではない。それはきっと、真実だった。

 ルキウス自身、先ほどの言葉を聞いて真っ先に「暗殺」の文字を脳裏に浮かべたものだ。

 けれどそう言えば、オクタヴィアをさらに不安にさせてしまう。無理にも笑みを刻んで見せた。


「思い過ごしだ。いくら母上でも、私を――我が子を、失脚させようなどとはなさらないだろう」


 きっと、大丈夫。言い聞かせるのはオクタヴィアに対してだけではなく、自分の心に向けたものでもあった。

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