第12話 杞憂

 だがそれを機に、アグリッピナは不穏な動きを見せるようになった。

 ルキウス自身と同じく、母方の血筋で神君、アウグストゥスに繋がるルベリウス・プラウトゥスという男と、頻繁に私的な会見を行っているという。


 彼は、クラウディウス帝の養子となったこと、その娘オクタヴィアと結婚したことを除けば、ほぼルキウスと同じ状況だった。もしオクタヴィアと結婚でもすれば、自分こそ正当な皇帝であると主張もできる立場にいる。

 もちろんルキウスは、オクタヴィアと離縁などしない。それを知るアグリッピナが、オクタヴィアを自由にさせようとすれば当然、暗殺という手段が――


 考えて、慌てて頭を振る。

 いくらあの人でも、子供の命を奪うようなことはしない。

 人間の道徳と良心を、信じたかった。


 ならば一体、何を企んでいるというのか。

 次に考えられる可能性としては、ルベリウスとアグリッピナの結婚だった。

 アグリッピナは、母后だ。彼女の夫となれば、ルキウスに兄弟や子供がいない以上、皇位継承順位は一位となる。

 ルキウスを退位させてしまえば、その後を継ぐ形で再び皇后となることができた。

 もっとも、現在の状況でルキウスを排斥できる理由はないであろうが。

 ならばやはり、暗殺だろうか。


 ふと、苦笑が洩れる。

 どうしても思考がそちらへと向かってしまう自分の、なんと醜いことか。


 一層のこと、退位も悪くないのかもしれない。

 不意に浮かんだのは、半ば自棄に近い感情だったのだろうか。

 実の母子で腹の探り合いをするのも、もう疲れた。

 そもそも、望んで皇帝の地位に就いたわけではない。権力を欲したこともない。

 名声を望むアグリッピナのこと、カリグラのような悪政を強いることはないはずだ。市民の利益が守られるのならば、帝位から退いてもいいのかもしれない。


 あの時は決して本気ではなかったけれど、数日前にアグリッピナの前で宣言した通り、ロードス島にてオクタヴィアと二人、平和に暮らすのも悪手ではない気がしてきた。

 半端な形で辞めるのは、ブリタニクスへの後ろめたさはある。けれど彼が一番に望んでいたのは、姉の幸せだった。

 ならば二人で汚い政治から離れて、心穏やかに暮らす方がいいのではないか。優しいオクタヴィアにとっては、その方が向いているのかもしれない。


 上体を起こし、隣りで眠るオクタヴィアを見つめた。

 彼女ならばきっと、自分の判断を信じてくれる。きっと、ついて来てくれる。

 確信にも似た思いと同時、なぜ自分は本当の男ではないのだろうと、嘆息を禁じ得なかった。


 オクタヴィアの、幼さの残る面立ちが好きだった。

 大きな瞳、ふっくらとした頬、柔らかそうな、艶やかな唇――。

 女の身であってさえ、これほどまでに焦がれているのだ。男であればきっと、心の底から愛していただろう。

 そうしたら、名実共に幸せにしてあげられるのに。


 思うほどに、胸の奥にしめつけられるような痛みが走る。

 オクタヴィアの傍にいられて、ルキウスは幸せだった。

 けれど、彼女は?

 オクタヴィアは自分と一緒にいて、本当に幸せなのだろうか。


 アグリッピナは、ルキウスを皇帝にするためだけにオクタヴィアを道具として使った。政略結婚、しかも相手は女――とても幸せとは言えない環境だった。


 ならば、いい機会でもあるのかもしれない。

 ルキウスが身を引けば、アグリッピナはルベリウスとオクタヴィアを結婚させるだろう。母后であろうと皇后であろうと、権力さえ握ることができれば問題ないのだから。

 ルベリウスの噂は、聞き知っている。オクタヴィアよりは年上だけれど、釣り合いが取れないほどではない。また、性格も穏やかな美丈夫だという。

 オクタヴィアを知れば、どのような男であれ邪険に扱うなどできないはずだ。ルベリウスもきっと、大切にしてくれるに違いない。

 きっと、オクタヴィアは幸せになれる。


 ルキウスはいつも、眠る前に酒を飲む。

 もちろん、今夜も例外ではない。

 酒と、夜更けの考えごと。正確な判断能力があるかは疑わしく、思考は次第にそこへと落ち着いていく。

 眠るオクタヴィアの前髪をかき上げ、そっと額に口付けた。


「――んっ」


 もぞりと、布団の中で身動ぎをする。眠そうな目で見上げてくるオクタヴィアに、愛しさが込み上げてきた。


「すまない、起こしてしまったか」

「大丈夫……それよりも、まだ起きてらしたの?」

「――少し、考えごと」


 心配をかけないようにと、くだらないことだよとつけ加えて、苦く笑う。

 実際、くだらないことではあった。わかっているのに、延々と考えていた自分の愚かしさがおかしい。

 けれど、尋ねてみたい衝動があるのもまた、事実だった。


「オクタヴィア――君に、訊いてみたいことがある」


 呼びかけに応える、なぁに、というのんびりした声が耳に痛い。


「もし――もし、仮に、だ。別れてほしいと言ったら、君はどうする」


 寝起きの、まだまどろみの中にあった柔らかな微笑みが、瞬時にして凍り付いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る