第13話 幸福
別れる未来があるかもしれない。
婉曲に告げた言葉に、オクタヴィアの顔が凍り付く。
ああ、やはり言わなければよかった。
悲しげな顔に、胸が絞めつけられる。
「――私のこと、嫌いになりました……?」
「まさか」
オクタヴィアを嫌う日など、来るはずがない。即座に否定する。
「そうではなくて。ただの仮定だ。もしよければ、聞かせてほしい」
刻んだ笑みは、自分でも嘘くさいものになる。
怪訝そうにルキウスを見上げていたオクタヴィアは、身を起こし、深くため息を吐き出した。
「あなたがそれを本当に望んでいるのならば、受け入れます」
受け入れられてしまうのか。
オクタヴィアが幸せになれるのであれば、それでもいい。そう思っていたはずなのに、縋ってくれないことが寂しいなどとは、度し難い。
「けれど、理由は? それくらい、聞かせてもらってもいいと思うのだけれど」
「それは――」
仮定だと言ったのはルキウスなのに、本当にこのまま別れなければいけない気分になってしまう。胡散臭い笑顔を保つこともできず、神妙な面持ちになって俯いた。
「君は、幸せにならなくてはいけない。必ずしてみせると、ブリタニクスにも誓った。けれど」
ゆっくりと、噛みしめるように言葉を紡ぐ。
「だけど、私では君を、本当に幸せにはできない」
「本当の、幸せ?」
「女の幸せとは、惚れた男の子供を産み、育てることだ」
そうだろう?
問いかけは、同意を求めるためのものではなかった。
産めよ増やせよのこの時代、増して高貴な血筋であるオクタヴィアにとって、子孫を残すことは本来、義務ですらある。
その義務や幸せを奪っているのは、他ならぬルキウスだった。
「私達が一緒にいては、それは叶わぬ夢だ。だからこそ、別れた方がいいと思う」
何故、口にしてしまったのか。
最初は、ただの思いつきだった。けれど同時に、真理でもある。
いつかは直面せざるを得ない問題とはいえ、今ではなくともよかったのではないか。
オクタヴィアが承諾すればきっと、別れは必然のものとなる。彼女と共に過ごせる幸せも、終わりを告げる。
「――仕方のない、ことではありますけど……相手は一体、どなたなの?」
大きなため息と共に発せられた言葉は、ルキウスには理解のできないものだった。
「誰、とは、何の話だ」
「とぼけても駄目。やはり、オト?」
「オト?」
いつになく厳しい顔のオクタヴィアに、ルキウスはただ疑問符で返す。
何のことを話しているのか、何故ここにオトの名が出てくるのか、まったくわからない。
混乱するルキウスに対して、オクタヴィアは珍しく責める語調で続けた。
「だから、私があれほど心配していましたのに。他の男性ならともかく、よりにもよってオトに想いを寄せるなんて――」
「私がオトに? 莫迦な」
思わず上げた笑いは、失笑に他ならなかった。
オトと知り合ってすでに数カ月、友人として交流を続けているのは事実だ。思っていたほどに乱暴でもなく、好感を抱いていることも否定しない。
だからといって、恋愛感情があるなどとは、あまりにも飛躍しすぎだった。
「そもそも、私に好きな男などできるはずもない。ずっと男として育ってきたのだし、これから先も同様だ」
「けれど先程――」
「あれは、君のことを言っていたのだ」
「私?」
きょとんとした様に、オクタヴィアらしい、とも思う。
彼女自身の幸せではなく、真っ先にルキウスの幸せを願ってくれる優しさが。
「そう、君の、女としての幸せ」
小さな子供を諭すように、オクタヴィアの目を見つめながらゆっくりと口にする。
ルキウスを見つめ返していた彼女が、やがて、考えごとをする素振りですぅっと目が逸らした。
「ね、でしたらあなたの、女の幸せはどうなりますの?」
「否、私は男として皇帝になった。そのようなことは考えたこともないし、望んでもいない」
「あら、私も一緒」
困惑したままの返答に、にっこりとした笑みが返ってくる。最初から、ルキウスの返事を予想でもしていたかのような反応だった。
「私は、あなたが女だと知った上で結婚生活を送ることを決めた。これは、私自身の選択です。あなたの言う『女の幸せ』なんて、その時に捨てました」
「それは――」
「でも、勘違いなさらないでね? 私は幸せです。きっと、この世の中の誰よりもきっと」
自然な動きで、するりと指先を絡ませてくる。たったこれだけの触れ合いでも、暖かさが伝わってきた。
「人の幸せなんて、他人の目から見て決められるものではないはずよ。人それぞれ、形の違う幸せだって、あると思うの。だから、私は誰よりも幸せ。それでいいでしょ?」
微笑みでくれた答えは、望んでいた以上のものだった。
嬉しさと同時に、安堵する。共にいられる幸せを噛みしめているのが、決して独りよがりではなく、彼女も同じ気持ちでいてくれているのだと知って。
「それと、もうひとつ。この間、お義母さまに言った事――二人でロードスへ行く、なんてこと、本気では考えないでね?」
抱きしめようと、そっと伸ばしていた手がビクリと止まる。
「皇帝に相応しい人物は、あなた以外にはいません。あなたが皇帝であることは、私の望みであり――ブリタニクスの夢でもあるのですから」
責める口調ではない。優しく諭すような言葉に、苦く笑い返すことしかできなかった。
アグリッピナに宣言した時は、ただ彼女への牽制に過ぎなかった。しかしオクタヴィアには、ルキウスが真剣に考えることを予測していたのだ。
おっとりとしていそうで、実は鋭い。オクタヴィアの賢明さが、嬉しかった。
彼女が伴侶として傍にいてくれている以上、自分の治世はローマ建国史上、最も栄え、また、平和な時代になるに違いない。
希望的な観測だけではなく、確信にも似た予感だった。
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