第14話 予兆

 翌朝、ルキウスが真っ先に行った仕事は、裁判の手続きだった。

 陰謀犯の疑いのある母、アグリッピナの審判である。


 思い悩んだ末、これが最も穏便な手段に思えた。

 最初は、ルベリウス・プラストゥスを罪人として追求しようとしたが、それでは母に逃げる隙を与えてしまう。

 恐らくは彼を見捨て、また誰か、由緒ある人物をどこからか連れてくるのが関の山だ。

 くり返しを阻止するためには、アグリッピナ自身に処罰を与えなければならない。


 皇帝暗殺を企てた者は、ほぼ死刑と決まっていた。もちろん、そこまでは望んでいない。例外的に、母への恩赦として流刑に軽減するつもりであった。


 だが思惑は、見事に外されてしまった。


 審議場に現れたアグリッピナは、傍聴席にいるルキウスを見ると、途端に瞳を潤ませた。

 悲しみを隠して気丈に振る舞っているかのような態度が、偽りであることをルキウスは見抜いていた。

 それは幼い頃から、彼女を見ているからわかったのだけれど、審査員達は違う。アグリッピナの美しい容貌のせいもあり、すでに同情を表し始めていた。


「私の罪とは、何でしょう」


 弁明を求められたアグリッピナは、ゆっくりと口を開く。


「子供を産んだことでしょうか。育てたことでしょうか。それとも、皇帝の地位に就けたことでしょうか」


 一つずつ口にする様は、まるで演説のようだった。

 周りを見渡し、俯いた目から涙が零れ落ちる。


「子供の幸せを考え、すべてを犠牲にしてきたというのに、その子供の滅亡を望んでいるなど、あり得ません。私の罪が、子供の幸せを祈る母の気持ちだというのならば、罰を受けるのも仕方のないことでしょう。けれど、その子にだけはわかってほしい。それなのに、私を告発したのが他でもない、我が子だとは――」


 最後には、顔を覆って泣き出した。


 やられた。ルキウスは、敗北を悟る。

 他者の目に自分がどう映るのか、計算して動くのはルキウスの得手だった。その技を仕込んだのは母なのだから、この場でどう振る舞えばよいのかなど、彼女にとっては考えるまでもなく容易なことのはずだ。

 諦めの気持ちで傍聴席を離れ、公務室で審議の結果が出るのを待つしかなかった。

 もっとも、待つと言ってもさほど時間はかからなかった。ルキウスが退室する時にはほぼ、結論が出ていたのだから。


「アグリッピナ様は、無実です。どこからそのようなお話を伺ったのかは存じませんが、単なる悪意の、中傷だったようです」


 伝えに来たセネカは、いかにも残念そうに伝えてくる。

 セネカはアグリッピナを通じて、傅育官となった。おかげで今、摂政という立場を得ている。共謀者とも呼べるアグリッピナの追放を、望むわけがない。

 それでなお残念そうな顔をして見せる理由は何か。

 簡単だ、ルキウスに取り入るためである。


「そうか。ご苦労だった。もう下がってくれ」


 意向を知りつつ、あえて冷たく言い放つ。

 不快を隠しもせぬ表情を見せながらも、セネカが逆らえる立場にあるはずもない。一礼して退室する彼の背を見送って、嘆息を洩らした。


 アグリッピナを流刑にしたら、ルベリウスもローマを追放しようとしていた。共犯者と言われている彼を、無罪にするのは道理に合わない。

 また、皇帝となれる可能性のある者を、排斥する意味合いもあった。

 だがアグリッピナが無罪となった今、陰謀そのものがなかったことにされてしまった。彼の追放もまた、不可能になる。


 これからは命の心配を――しかも、実の母から送られる暗殺者の陰に怯えて暮らさなければならないのか。


 考えるだけでも、気分が重くなる。

 もっとも、さすがに同じ宮廷で暮らすことは不可能だった。せめてアグリッピナとの距離をもとうと、祖母のアントニア邸へと移ってもらえないかと、極めて慇懃に頼んだ。

 先の陰謀事件がより誤解であったことを示すためにも、アグリッピナは「子に忠実な母」を演じようとするだろう。ならばこの要請を断るはずがない。

 予測通りとはいえ、何の抵抗も見せずに居を移すことに同意してくれて、少なからず安堵した。


 だがこの間、数カ月に及ぶ陰謀事件が与え続けた、ルキウスの精神に対する重圧は大変なものだった。

 傍にオクタヴィアがいてくれなければ、とっくに投げ出していただろう。


 否、考えを放棄する夜は、幾度もあった。

 神経衰弱気味にある状態、緊張状態をほぐすために、変装してはオトと街へと下りる。

 オトは元老議員を父に持ちながら、放蕩者として過ごした時間が長いせいか、ローマの街を――特に、悪所と呼ばれる場所を熟知していた。

 ほとんど一人で外出したことのないルキウスを、あちらこちらと連れ回し、強い酒を飲んでは共に暴れた。道行く人に喧嘩をふっかけて、乱闘騒ぎを起こしたことも一度とは言わずにある。


 面白かった。いけないことだとは知りつつ、すべての気がかりを忘れてはしゃぐその瞬間が、永遠であればと願ったことさえある。

 この遊びを知ったオクタヴィアに、幾度となく窘められた。


 気持ちはわかるけれど、皇帝としての自覚を持って。


 そう言われれば、彼女の主張は至極最もだった。

 けれどオクタヴィアと共にある安らぎと同じように、オトと遊ぶこともまた、精神衛生上、大切になっていた。


 ルキウスの、皇帝としての人気は未だ衰えてはいない。けれど、陰謀事件やオトとの危険な夜遊びが、輝かしい栄光に暗い影を投げかけているのは否定できなかった。

 その上、オトとルキウスが肉体関係にあるとの噂まで流れ始めている。

 もちろん、そのような事実はない。ないのだけれど、オトが未だ求めてくることがあるのもまた、事実だった。

 だが、無理強いはしない。ルキウスが拒否すればそれを受け入れ、すぐに元のふざけた態度で和ませてくれる。


 出会って二年ほどの年月が流れた。その間に、オトの存在はルキウスにとって大きなものとなっていたのだ。

 ルキウスが現実逃避に選んだ遊びこそ、オクタヴィアにとっては現実の不安に他ならないことを知っていたとしても。

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