第三章

第15話 殺意

 ルキウスやオクタヴィアの心配をよそに、時は平和に過ぎて行った。

 さすがに懲りたのか、アグリッピナの噂は一年余り聞かなかった上、オトとの夜遊びに興じながらも、ルキウスは皇帝の責務をそつなくこなしていた。

 ローマは平穏そのものだった。


 ――オクタヴィアが、その話を持ってくるまでは。


「聞いてほしいことがあるの、ルキウス」


 公務を終えて、久しぶりにまっすぐ帰って来た途端、オクタヴィアに切り出された。あまりに真剣な表情に、たじろぎを覚える。

 オトとのことをまた、注意されるのだろうか。据わりが悪い気分のまま、オクタヴィアの向かいに腰を下ろす。


「噂を聞きましたの。あなたに対する、中傷を」


 真摯な眼差しが、まっすぐに見つめてきた。


「あなたとお義母様が――近親相姦の関係にあると」


 躊躇いがちに、それでもはっきりと告げられた言葉に、愕然とする。同時に、憤りも覚えずにはいられなかった。


「莫迦な。君はそれを、信じるのか?」

「まさか。だから言ったでしょう? 中傷だと」


 ため息を吐くオクタヴィアに、少し安堵する。そのような汚らわしいことをする人間だと、彼女に思われるのは辛い。


「その上――このような事は言いたくないのだけど、その噂を流しているのが、他でもないお義母様かあさまだという話で……」

「母上が?」


 今でも、アグリッピナに母としての敬意を示すことは怠っていない。彼女が引っ越してからも、時折表敬訪問は行っていた。

 アグリッピナも、訪れたルキウスに対して、子に従う慎ましい母の態度に徹している。

 むろん、本心ではないことはわかっていた。含むところがあるだろうことは見て取れたが、まさかそのような噂を流しているとは、夢にも思わなかった。


 そもそも、中傷の意味がわからない。アグリッピナの名誉をも傷つけるだけで、何ら利益の出る話ではないはずだ。

 また、市民の評判にはいつも気を配っていたルキウスの耳に、まったく入ってこなかったのも何故だろう。


 ――否、無理もないかと思い直す。皇帝の醜聞を本人の耳に入れて、機嫌を害するのを厭うたのだろう。

 いずれにせよ、市民や配下の者達はまだ、ルキウスを皇帝と認めている。ならば早いうちに手を打つべきだった。

 教えてくれたオクタヴィアに礼を言い、話をつけるためにアグリッピナの元へと向かった。



「嬉しいわ。あなたの方から訪ねて来てくれるなんて」

「――母上。二人きりで、話がしたい」


 突然の訪問に、しかしアグリッピナは驚いた素振りも見せなかった。にこやかな笑顔に、ルキウスは強張った顔のまま告げる。


「母上、あの噂――私と、母上の忌まわしいあの噂は、一体どういうことなのですか」

「ああ、そのこと。嫌ね、きっと誰かが私達親子の仲のよさを妬んでいるのよ。私も困っているけれど、気にしないようにしているの」


 あまりにも白々しい態度だった。眉根を寄せた困り顔だけれど、目は笑っている。

 見逃すルキウスではなく、また、アグリッピナも騙されてほしいわけではない。思い通りに動くのは癪ではあったが、それ以外に道がないのもまた、事実だった。


「とぼけないでください。何を狙って、あなたはあのような噂を流すのですか」

「私が? まさか。私には何の益にもならないのに」

「だからこそ、何故とお伺いした」

「知らないわ。オトとかいう男との同性愛にふけるあなたのことですもの。母子相姦が行われてもおかしくはないとでも思われているのではなくて?」


 自らが中傷を流した犯人だとは、認めない。ただ、口では否定しながらも、表情と態度が、すべてを物語っていた。


「気を付けた方がいいわよ。せっかく、摂政のセネカが善政を布いても、当の皇帝が異常人格者だなんて思われたら、元も子もないのだから」


 忠告めいた台詞は、実際には脅しであった。

 ルキウスを異常人格者に仕立て上げ、人気を失墜させる。市民の支持を得られなくなった皇帝の末路は、悲惨なものだ。元老院にも見捨てられ、皇帝の座を追われることもありうる。

 アグリッピナらしからぬ、婉曲的で、しかも確実性に乏しい方法ではあった。


「――ねぇ、ネロ」


 これだけで終わりとは、到底思えない。遠因を作るだけで満足できるような人ではないはずだ。

 アグリッピナは口の端に笑みを刻む。


「私が本気になれば、あなたを退陣させるなど簡単なのよ。あなたの秘密を、噂にして流すだけ」


 今回のように。言外の言葉に、ハッと息を飲む。


「でも、そうすればあなたは殺されてしまう。だからそのようなことはしないの。だけど、私のお願いを聞いてくれないのなら――」


 幼い頃からこうだった。優しくさえ見える笑顔で、ルキウスを支配する。

 今度はまたその笑顔で、ローマ帝国まで支配しようというのか。

 ギリ、と唇を噛みしめるルキウスに、アグリッピナは続ける。


「あなたも、ブリタニクスの待つ冷たい土の中、よ?」


 突如現れた名に、絶句する。

 何故、今ブリタニクスの名前が出てくるのか。


 まさか――浮かんだ可能性を、必死で否定する。


 皇帝の座をめぐって命を落としたから、その名が挙がっただけだ。ただそれだけだと思いたいのに、本能の部分で気付いてしまっていた。


 今ならばまだ、間に合う。逃げ出してしまえ。真相から目をそらしてしまえ。


 訴えてくる本能を、理性が牽制する。お前には真実を知る義務があるのだ、と。

 血の気が引いて、顔面蒼白になるのを自覚していた。

 立ち尽くすルキウスに、アグリッピナは嘲りを含んだ笑みを向ける。


「もしかして――気付いていなかったの?」


 くすくすと、耳に心地よくさえ響く笑い声は、毒そのものだった。ルキウスは逃げ出すこともできず、喉を上下させる。


「では――ブリタニクスを殺したのは――」


 愕然と洩らした呟きへの返答は、嫣然とした嘲笑だった。

 意外と鈍いのね。声なき声を、聞いたような気がする。


「クラウディウスの死も、都合がよかったでしょう」


 毒々しいまでに鮮やかな唇が、残酷な真実をあっさりと告げた。


 何故、気付かなかった。

 愚鈍に過ぎる自らに、絶望すら覚える。


 少し考えれば、わかっていたはずだ。クラウディウス帝の死因は毒殺だと、噂されていたのは事実なのである。

 ブリタニクスのことも、彼を邪魔者扱いしていたアグリッピナの仕業だと。


 けれど、信じたかった。いくらアグリッピナでも、夫を――義理の息子まで手にかける冷酷さは持ち合わせていないと。


 それともルキウスのための殺人だと、認めたくなかっただけか。

 ――ルキウスのせいでブリタニクスが死んだ事は、疑いようのない真実だったのに。

 それでも、血を分けた母がまさか、自分にとって大切な人を殺したのだとは思いたくなかった。

 辛い現実を突きつけられたくなくて、目を背けた自分の弱さが憎い。


「――母上。政治にあなたは不要。これが、私が下した決断だ。覆されることはない」


 自らへの憎悪もアグリッピナへと叩きつけることだけが唯一、正気を保たせる方法だった。

 否、すでに正気ではなかったのかもしれない。

 静かな狂気を孕んで告げるルキウスに、アグリッピナは鼻を鳴らす。


「そう。だったら仕方がないわね。あなたにも二人の後を追ってもらうことになるかもしれないわ」


 実の子を手にかけるわけがないなどと、この人には常識的な愛情論は通用しないのだ。

 ルベリウスの件でわかっていたはずなのに、目を瞑ろうとした自分のなんと、愚かしいことか。


「それでも結構だ」


 まさか、認めるとは思っていなかったのだろう。息を飲み、顔を上げるアグリッピナを、ルキウスはもう視界に入れることすら避けたかった。


「待ちなさい、ネロ、どういう――」

「あなたの好きになさるがいい、と言っている。その代わり」


 踵を返すルキウスを、追ってくることさえ許さなかった。言葉を遮り、湧き上がる憤りを目線に乗せて、肩越しに振り返る。


「その代わり、私も好きにさせてもらう」


 宣言と同時、ルキウスは後ろ手に扉を閉めた。その胸には、固い決意が刻みこまれている。

 ――それは、殺意と呼ばれるものだった。

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