第九章

第55話 大火

 無気力な日々が過ぎていった。

 何をする気にもなれない。熱心に取り組んできた政治にも、もう誇りを感じられなくなった。


 皇帝というのは、絶対権力の保持者ではない。特にローマは、元老院という制度がある。

 そもそも、ルキウスが皇帝となった当時、すでに帝国は腐りきっていた。「王」である皇帝と、「摂政」とも言うべき元老院が同等の力を持っていること、そのものが間違いだった。

 どのような法案も、元老院を通さなければ決議できない。


 ルキウスが提案する、市民を優先させる法案は、支配階級には不利なものが多い。腐敗した元老院が、自らの窮地を招く法案を、通すはずがなかった。

 ローマの腐敗は、皇帝に絶対権力を与えなかった時、すでに始まっていたのだ。


 また、私的な時間においても、ルキウスを待つのは絶望だった。

 ガイウスと結ばれたあの夜から、決して消えることのない罪悪感。

 何より、神聖な存在だったガイウスが、自分と同じ高さまで下りてきてしまった。人間らしい欲望を見た後では、彼に許されたと感じていた罪が、まったく消えていなかったことを思い知らされただけだった。


 けれどもう、離れることはできない。

 ルキウスに残ったのは、皇帝という実のない虚しい地位と、ガイウスだけなのだから。


 突然の災害に見舞われたのは、形骸化した仕事をただこなし続けるだけの日々に、心が腐り果てる直前だった。


 大競技場の一角、パラティン丘とカエリウス丘に接する側から、火の手が上がった。

 ローマでは、よく大きな火事が起こっていたから、最初に報告を受けた時は、いつものことと高を括っていた。

 火事が頻発する理由は、わかっていた。人口が増える度に増設した住居は道路にはみ出し、道もぐねぐねと曲がり、入り組んでいる。

 しかも建物同士が隣接しているせいで、あっという間に炎が燃え広がってしまうのだ。


 わかっているから、常々言っていた。一度、全ての建物を取り壊してでも街を整備する必要がある、と。

 もっとも、これまでは大惨事に繋がることはなかった。火事があまりに頻発するので、市民達は逃げるのがうまくなっていたからだ。


 けれど今回は違った。そもそも場所が悪かったのもある。出店の並ぶ通りで、燃えやすい商品が置いてあった。そのせいで火の勢いは、いつもとは比べ物にならない早さで広がっていったのだ。

 悪いことは重なるもので、その日はまれに見る強風が吹き荒れていた。炎はあっという間に大競技場を包み込み、平地や高台を構わず、全てを灰と化しているのだという。


 ルキウスは公用で、アンティウムに滞在していた。けれど火事の勢いを聞くと、すぐさまローマへと取って帰る。

 夜の暗がりに浮かび上がる、紅蓮の炎。

 音を絶てて崩れる建物の、阿鼻叫喚の中でさえそれは美しかった。


「まるで――トロイの滅亡のようだ」


 燃え盛る炎の前で、思わず呟く。

 ホメロスの詩にある、古代都市の滅亡の姿に、目前の光景は酷似していた。

 美しい炎は、音を立てながらその舌で街を舐め尽くす。――この、腐りきったローマの街を。


 トロイのように、このローマも滅びてしまうのだろうか。

 そして数百年の後、ただの伝説としていずれ、忘れ去られる。


 この炎によって、皇帝カエサルネロの名もまた、焼き尽くされる運命なのか。


「皇帝! 何を呆けておられる!」


 ガイウスの叱責に、我に返る。

 そう、立ち尽くしている場合ではない。やるべきことが――できることが、あるはずだ。

 皇帝として、詔を発することも肝要だ。けれど今は、執務室にこもるよりも、夜道を駆け回り、救済に手を尽くす方が先だった。

 皇帝でもない、ただ一人の人間としてできること。


「ガイウス、二手に分かれよう。あなたはあちらへ」


 ルキウスの言葉に頷き、ガイウスは颯爽と駆け出した。

 その後ろ姿を見送る暇もなく、ルキウスが見たものは、今まさに崩れようとしている家屋――その下に怯えて蹲る、幼い子供の姿だった。


 咄嗟に、体が動いていた。

 少年の上に覆いかぶさるように、身を投げ出す。


「大丈夫……?」


 身を挺してかばった少年が、悲鳴にも似た声を上げる。

 背中と、どうやら後頭部にも焼けたレンガを受けてしまったようで、痛みはあった。

 けれど、子どもに怪我がないことの方が嬉しい。安堵が、口元に笑みを刻ませた。


「ああ、平気だ」


 努めて平然と答えた端から、こめかみを伝い、頬にも血が流れ落ちる。


「お姉ちゃん、血が――!」

「これくらい、別に構わないと言った」


 腕で、ぐいっと血を拭う。

 実際、後ろ頭に鈍い痛みはあるが、動けない程ではない。この分であれば、出血はあるが傷自体はさほど酷くもないだろう。

 男の子の手を引いて走りながら、それにしても、と苦笑する。


「どうでもいいが坊や、私は男だ」


 幼い頃から男装を続け、「まるで女の子のようだ」とは言われても、女と断定されたことは一度もなかった。

 なのにこの子は、「お姉ちゃん」と呼びかけてきた。男女どちらか、と悩んだ風もない。

 美しく整えた姿ではなく、瓦礫の間をすり抜けてきた、煤だらけの顔と服、血に濡れた顔を見て、だ。


「女の人でしょ? そう、見えるけど……」


 きょとんとした顔を向けられて、返答に困る。先入観のない子供の目は、素直だからこそ鋭い。

 ――それとも、ガイウスとの関係で自分の中の何かが変わってしまったのか。

 自嘲が口の端に滲んだのを自覚する。それ以降、少年の顔を見るのが怖くなってしまった。

 結局、避難場所であるマルスの野につくまで、少年とは口をきけなかった。


「ここでじっとしていなさい。――大丈夫、悪いようにはしないから」


 マルスの野には、焼け出された市民達が集まっている。ここにいれば、公的な支援が受けられるはずだ。

 そのように、ルキウスが取り計らうのだから。


「あの……お姉ちゃん、また、会える?」


 ルキウスの言葉に頷いた後、少年はおずおずと問いかけてくる。

 命の恩人、とでも思ってくれているのか。控えめな上目遣いに、笑みが零れる。

 可愛い子だ。年は十くらいだろうか。

 知的な眼差しは、どこかブリタニクスを思い出させる。懐かしさと共に、苦い思いが口の中に広がった。


「――さて、どうかな。いつか、またどこかで会えたら……」


 そのような偶然があれば、私に仕えてみるか。

 口にしかけた言葉を飲み込んで、少年の頭を乱暴に撫でる。

 感傷に浸っている場合ではないのだ。ルキウスは彼に背を向け、歩き出す。


皇帝カエサル


 ガイウスに声をかけられたのは、少年と別れてすぐのことだった。血に濡れたルキウスの姿を見ると、愕然と目を瞠る。


「お怪我を――?」

「大したことはない。それよりも、火の勢いはどうだ」

「まだ酷いままです。消火活動も懸命に行っているのですが――消えかけてはまた、どこからか火の手が上がるので」

「――どういう意味だ」


 報告に、問い返す声が低くなる。


「申し上げにくいのですが――何者かが火をつけて回っているとしか」


 ガイウスの言葉に、咄嗟に反応できなかった。

 大規模な火事に便乗した放火は、珍しい話ではない。火事場泥棒には、炎が広がれば広がる程好都合だからだ。

 実際、今まで頻発していた火事の際にも多く見られた。

 自己のために他者の財産を、命をも軽んじる行為に、人間の醜さを見せつけられた気分になる。


「――わかった。とにかく、続けてくれ」


 犯人捜しは後でもできる。今は消火や救済活動を優先させるべきだった。

 頷きと共に指示を与え、ルキウスはまた、燃え盛る炎の街へと駆け出した。




「――あの人が、皇帝カエサルネロ――」


 ローマにおいて、その名を知らぬ者はない。幼い子供であっても、例外ではなかった。

 悪名も、鳴り響いている。

 けれどたった今、悪名高きはずの皇帝は何の益も求めず、身を挺してまで市民を――自分を、守ってくれた。

 言い知れぬ感動に、思わず呟く。一生消えないであろう尊敬が、胸に刻み込まれるのを感じていた。

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