第53話 秘密

 たった一年――もう、一年。

 オクタヴィアのために、まだ何もしてあげられていない。一日いちにちはあれほど長く感じられたのに、もう一年も経ってしまった。

 溜め息を、堪えることができなかった。


 ポッパエアは今、この宮殿にすらいない。昨日から三日間、旅行に出ている。

 否、強制的に行かせた、の方が正確か。

 ポッパエアの存在は、ルキウスにとって取るに足らぬものではあった。けれど形ばかりとはいえ、妻の立場にある彼女がこの宮殿に居ることが、どうしても耐えられなかったのだ。


 ポッパエアとの私室は、別にある。形式上そこを私室としているが、ルキウスが訪れることはまずない。執務室の隣に設えた、仮眠室を使うことが多かった。

 寂しさに駆られると、オクタヴィアとの私室を訪れる。彼女との思い出に浸って酒を飲むのが、習慣になっていた。


 今日もまた、オクタヴィアと並んで座った臥台に腰掛け、一人で杯を重ねる。寂しさや悲しさと共に、心が安らぐような気がするのはなぜだろう。


 辺りは暗がりに包まれている。小さな明かり灯しただけの、薄暗い部屋。

 まるで夢か幻のような、不思議な光景だった。


 唇を酒で濡らし、瞼を閉じる。

 オクタヴィアを失い、心の支えとなったアウグスタも、すでにない。残されたのはただ、皇帝の位と虚しく生き長らえる、この命だけだった。


 オクタヴィアが見せてくれた笑顔が、瞼の裏に蘇る。優しい穏やかさ、それに包まれて幸せだった頃の自分――

 それこそがまるで夢のように、頭を駆け巡る。

 後悔は、してもしつくせない。彼女を信じきれなかったが故の悲劇――ルキウス自身の、過ち。


 叶わぬこととはわかっていても、願わずにはいられない。あの、至福の時に戻りたいと。


 否、できることならば生命を授かった、瞬間に戻りたい。そうしたら今度こそ、間違いなく男として生まれてくるのに。


 そもそも、女として生まれてしまったことこそが、最大の過ちだった。男であれば、何もかもがうまくいったはずだ。

 女の身であっても、オクタヴィアに惹かれた。もし男だったならば、彼女を愛さないはずがない。そうしたらきっと、幸せにしてあげることができた。

 一層のこと、同性愛を罪と思わず、貫き通せば死なせずにすんだ。


 苛立ちから、自らの胸元をはだける。女性の証であるその膨らみが、憎かった。

 悔しさに、杯を呷る。

 涙が落ちた。

 辛さを覚えるほどにまた、酒を喉の奥へと流し込む。


 カタン。

 背後の物音に、咄嗟に手元の短剣を握りしめる。


「そこにおられるのは――皇帝?」


 振り返っても、暗闇に浮かぶ人影をとらえることしかできなかった。

 けれど声でわかる。ガイウスだ。

 安堵と同時、腹立たしさが湧く。

 ガイウスへの想いは、変わらない。摂政的な立ち位置で讒言されるのは、不服だった。だがそれらが的を射ているのは疑うべくもなく、尊敬の念を禁じ得ない。

 恋心と畏敬を自覚しながら、オクタヴィアへの罪悪感が、それを意識することを阻んでいた。


 今日だけは、彼に会いたくなかった。

 決してガイウスのせいではない。けれどオクタヴィアを逆恨みしてしまった原因は、間違いなく彼だった。

 ガイウスの顔を見れば、より自らの罪を認識させられる。


 ただ、無下に追い出すことはできない。ここへの出入りの自由を許したのは、他ならぬルキウスなのだから。

 同時に、もしかしたら、という思いも湧いてくる。こうして一人で沈み込むよりも、オクタヴィアの思い出を語れば、少しは気が晴れるのではないか。

 ガイウスは、恋心を抱いている相手という以前に、親友であり、オクタヴィアの思い出を分かち合うことができる、唯一の人物なのだから。


「――やぁ、ガイウス」


 顔を正面に戻し、ルキウスは後ろ手に杯を投げる。


「一緒に飲んでくれないか。――久しぶりに」


 オクタヴィアの死後、ガイウスは仕事上の補佐としての役割が濃かった。私的に会うことは、まずなかった。

 少なくとも酒を酌み交わすことはなく、オクタヴィアと幸せに暮らしていた頃以来だ。


「私でよろしければ、喜んでお相手いたします」


 ガイウスが、ルキウスの隣へと腰を下ろす。

 本来、皇帝相手には非礼な行為ではあるのだろう。だが出会った頃、彼にそうしてくれと頼んだのはルキウス自身だった。

 薄暗い中、ガイウスの微笑みを見る。ルキウスがここにいたことを、きっと喜んでいるのだろう。安堵の表情が、印象的だった。


 けれど、その顔が瞬時にして凍り付く。


 一体どうしたのだろう。疑問に思い、ガイウスの視線を追って自らの胸元に目を落とし――愕然とした。

 苛立ちに任せて、乱した衣服。

 その間から覗く白い肌が、自分の目にすら眩しい。

 我に返ってかき抱くように隠したものの、すでに遅かった。ガイウスにはもう、見られてしまった後なのだから。


「申し訳ございません――その」


 今までにこのようなことはなかった。

 オクタヴィアへの想いと、多量に摂取していた酒で警戒を怠ってしまったのか――いずれにせよ、取り返しのつかない失敗だった。

 むしろ、今まで誰にも知られなかったことこそが奇跡に近い。


「しかし――皇帝、あなたがまさか――」


 二の句を継げずにいるガイウスに、苦い笑いが込み上げてくる。


「驚いたかな」


 当然だと、浮かべた笑みに自嘲が濃くなる。


「私には初めから、皇帝の資格などなかった。血筋とか権利とか、そのような生易しいものではない。根本的な問題があった。それを隠し、正統な皇帝、ブリタニクスを押しのけてその地位を奪った、私は犯罪者だ」


 地位だけではなく、その命すら私のせいで奪われた。


 目頭が、熱を帯びてくる。

 続けたくはない、けれど――ルキウスにとって最たる罪を、口にしないわけにはいかなかった。


「――オクタヴィアも、死なせてしまった」


 ルキウスが女であったから――女としての恋心など、捨てなければならないはずの感情を抱いてしまったから、醜い嫉妬に駆られた。

 オクタヴィアを死に追いやったのは、間違いなくルキウスだった。

 その、醜悪な恋心を抱いた相手が、目の前にいる。


「ガイウス」


 薄暗い中、呼びかける声が掠れる。

 覚悟はもう、決まっていた。


「この秘密を知っているのは、今では私自身と、そしてあなただけだ。――これから、あなたはどうしたい」


 息を飲む音が、聞こえる。


 もし知られた相手がオトであれば、体を要求されたことだろう。黙っている、その代わりにと言われれば、拒めない。

 ガイウスは清廉な男だ。私利私欲のための道具として、この秘密を使うことはしない。

 逆を言えば、法を犯しているルキウスを許せない可能性はある。公益のためにと、暴露するのではないか。


 皇帝の座を、失うかもしれない。


 胸に沸いたのは、底知れぬ恐怖だった。

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