第28話 自覚
「なにか、おありになったのですか?」
質問に、身が竦む。
何かがあったのかと問われれば、あった。
決断したのは、自分。けれどどこかにまだ、迷いがあった。
だからこそ忘れたくて、共に趣味の話ができるガイウスの元を訪ねたのだ。
――その結果、より辛い現実を目の当たりにすることになったのだけれど。
「マルクス・オトという男を知っているか」
忘れるために訪れたのだが、一層のこと、そちらへ目を向ける方が気が楽になるのではないか。話をすることで、少しは救われるかもしれない。
口を開いたルキウスを、驚いたような目が見つめる。
「――噂は、ビテュニアにまで届いていました。評判のよくない男です。そして……」
口を濁した理由は、考えなくてもわかる。オトが有名なのは、「皇帝ネロ」の名と共に、だ。一緒に街で騒ぎを起こす仲間なのだから、口にするのを憚って当然だろう。
否、それだけではない。くすり、と苦笑が洩れる。
「面と向かって、あなたの愛人だ、とはさすがに言い辛いか?」
皮肉と捉えられても仕方のない台詞に、ガイウスはぴくりと身を竦ませる。その反応が、ルキウスが言った通りのことを思った事実を裏付けていた。
自惚れでなければ、ガイウスはルキウスに好意的だった。もちろん、尊敬すべき上官としてではあろう。だからこそ、気分を害する恐れのある言葉を、言えなかったのだ。
「皇帝」への恐れのせいでなければ、だけれど。
「――誤解だ」
嘆息に、声を乗せる。
「私とオトは、そのような関係ではない。あなたが信じるかどうかはわからないが――」
むしろ、結ばれていれば良かったのかもしれない。不毛な考えが、ふと浮かぶ。
身も心もオトに任せていれば、もっと彼に傾倒していた可能性もある。そうすれば、ガイウスが入りこむ隙間などなかったのではないか。
このような、想いにはならずにすんだ。
「実際、何度も求められた。――彼には、恩もある。受け入れようかと思ったことがあるのは、否定しない。だができなかった。私は――私、は……」
「――オクタヴィア様を、誰よりも愛しているから、ですね?」
言いよどんだルキウスの、後を継ぐ形でガイウスが口にする。
そうであれば、よかったのに。軽く伏せた目頭が、熱くなる。
オトへの返事を迷っていた時、瞼の裏に浮かんできたのはオクタヴィアではない。その時にはまだ名も知らなかった、ガイウスの顔だった。
地獄の底から救ってくれた人――幻影に惑わされ、女神にすら見捨てられたルキウスに手を差し伸べてくれた、優しい男。
月明りに照らし出された神々しい姿は、今でもしっかり瞼に焼き付いている。
あの時、あの瞬間、彼に恋していたのだとようやく自覚した。
目を上げると、幻ではない、本物のガイウスが座っている。
再会しない方が良かったとは、思えない。たとえ実を結ぶことのない想いだとしても、だ。
苦笑が、ため息に混じる。
「私は、オトの恩に仇で返した。書簡を彼に宛てた。準備が整い次第、総督としてルシタニアへと赴くようにと」
「総督、ですか」
ガイウスは、軽く目を瞠る。
「彼は財務官でしょう。随分な出世ではないですか」
決して、恩を仇で返すなどという所業ではない。続けようとしたのだろうガイウスは、ハッとしたように口を噤む。
敏いことだ。さすがと感心するのと同時、苦くも思う。
ルキウスがわざわざ、オトとの関係を話した理由だった。
オトには恩があり、また、何度も求められたと打ち明けた。なのに遠いルシタニアへの任務に送るのだから、彼の希望とは正反対の結果だった。
オトがなぜ、犯罪に手を染めてまでルキウスの願いを聞いてくれたかは、わからない。わからないふりを、ずっとしてきた。
けれど見せつけられた、彼の情を。
なのに遠ざけることを選んだのだから、裏切りと言われても否定はできない。
「暗い話は、ここまでだ」
ハッ、と短い嘆息を吐き捨てて、顔を上げる。
オトという友人を失う代わりを、ガイウスで埋めたい。彼の元を訪れたのはきっと、それくらいの気持ちだった。
けれど罪を吐き出し、そして想いを自覚して――ようやく、少しは気持ちを整理できた気がする。
「
「それはやめてくれ」
無理に浮かべた笑みが痛々しくあったのか。ガイウスが発した呼びかけに、頭を振る。
「あなたとはできれば、皇帝も臣下もない、友人として付き合いたい」
オトとそうであったように。言外の声に、気付かぬガイウスではない。
もっとも、もっと奥に潜む、本当は友人以上の――などという不埒な感情にまでは思い到らないだろうが。
「しかし、ではなんとお呼びすればよいのか」
ルキウスの気持ちを汲んでくれたのだろう。戸惑いを見せながらも応じてくれるガイウスに、今度はルキウスの方が黙ってしまう。
オトは、ネロと呼んでいた。不満に感じたことはないけれど、ルキウスにとってそれは、本当の名前ではなかった。皇帝ネロという、自分の一部分にすぎない。
ガイウスには、絶対に知られてはならない秘密を除いた「本当の自分」を見てもらいたい。
「ルキウス、と」
「――ルキウス? そう言えば、オクタヴィア様もそう呼んでらしたようですが……」
ガイウスが首を捻るのは、当然だった。
ティベリウス・クラウディウス・ネロ・ドルスス・ゲルマニクス。
養子縁組などのせいでやけに長くなったこの名前のどこにも、ルキウスの文字はない。
「ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス。これが私の――」
本当の名だ、と言いかけて、口を噤む。意識の中ではその通りなのだけれど、口に出してしまえば「
「私の、幼名だ。クラウディウス家に入る前のな。親しい人間には、こちらで呼んでもらっている」
もっとも、今ではそう呼ぶのはオクタヴィアしかいないけれど。
なるほど、と笑みを刻んだガイウスに、ルキウスも笑って見せる。
「さぁ、暗い話はここまでだと言っただろう? あなたの話を聞きたい」
「私の?」
「そう。確か、エジプトにも行ったことがあるとか。アレクサンドロス大王の眠る、アレクサンドリアにも?」
再会した会食の場でも、以降に会った時にも、ルキウスはギリシア文化への興味を語った。
アレクサンドロスの臣下がエジプトに渡って開いた、プトレマイオス王朝。ヘレニズム文化の象徴たる都市への憧れは、強かった。
「ええ、行きました。大王の墓や――まだ復興途中でしたが、大図書館にも」
話題を変えたい意図も察してくれたのだろう。ガイウスはそれ以上追及はせずに、話を続ける。
ユリウス・カエサルの時代に焼けてしまった、アレクサンドリアの大図書館。復興途中とはいえ、壮観だろう。
世界の七つの景観にも数えられた、大灯台――いずれもルキウスの興味をそそる話題でもある上、ガイウスは話上手でもあった。
次第にのめりこむように聞き入りながら、それでもどこか、頭の芯が醒めているのも感じる。
ああ、せめて彼が、他の女性を愛しませんように。
どの神に頼ればいいのかもわからないまま、ルキウスはそう祈った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます