第五章
第27話 訪問
ローマの街は、相も変わらず喧騒で溢れていた。
お忍びで街に降りる時、ルキウスはいつも変装をする。髪をほどき、豪奢な
どこで誰が見ているとも限らない。ルキウスをよく知る人物であればともかく、市民達に気付かれたことはなかった。
それでもよくない噂が立ったのは、オトが一緒にいたからだ。ルキウスと彼が行動を共にしているのは、有名な話だったから――
不意に思い出して、気分が沈む。
一月前、ガイウス・ペトロニウスとの再会は、衝撃的だった。どうしても、運命を感じずにはいられない。
また、彼はオトと違って教養人だった。ヘロドトスやホメロス、アイスキュロスについて熱く語り合えるのもまた、楽しい。
アグリッピナの件で引け目を感じることもある。恩に報いなければならないと思う一方で避けたい心理も働き、自然とガイウスと過ごすことが増えた。
――だからこその、決断だった。
オトへの書簡をしたため、ルキウスは街へとやってきた。どうしても胸に降り積もる、感傷から逃れるために。
オトを忘れるために訪れたローマの街は、いつも彼と来ていた思い出の場所だとようやく気付いたのだから、度し難い。
洩れかけたため息を飲みこみ、ルキウスは立ち止まる。目当ての場所は、もうすぐ目の前だった。
貴族の館としては、標準的な大きさだ。ただ、その外観は素晴らしい。
ヘレニズム文化の流れを汲みこんだ、優雅な建物。確か、設計も彼自ら行ったと言っていた。
無駄なく、それでいて優美さを忘れない。住む人、建てた人物の人柄を表しているかのようだ。
「これは――
ドアノッカーを鳴らし、やや間があって出てきたガイウスは目を丸くする。
ガイウスならばきっと、すぐにルキウスだと気付いてくれるだろうとは思っていた。一見して知られずとも、目を合わせれば当然、変装など意味はない。
ただ、最初にガイウスが顔を出すとは思っていなかった。まずはペトロニウス家に仕える奴隷が、続いて本人か彼の妻か、その順番であろうと思っていたのだけれど。
もっとも、こちらの方が話が早い。全く見知らぬ人物が訪れて、すんなりと主人に目通しが叶うとも思えない。事情を説明する手間が省けた。
「どうかなさったのですか、皇帝。わざわざこのような所まで……」
「お忍びで来ているのだ。そう皇帝皇帝と連呼するな」
当然の疑問を、人差し指を自分の口元に当てて遮る。
ハッと我に返ったように口を押え、ガイウスは辺りを見渡した。
街中とはいえ、貴族の館である。門から建物までは多少の距離があり、敷地内に関係のない者が入っているはずもなかった。
「ともかく、立ち話という訳にもいきませんね。どうぞ、お入りください」
苦笑を洩らしたガイウスに促され、館の中に足を踏み入れる。
部屋を見渡し、ルキウスは感嘆のため息を吐いた。
建物自体にもヘレニズム文化の影響が出ていたけれど、部屋の中もまた同じだった。ギリシアとエジプト、どちらも併せ持つ神秘的な雰囲気に、圧倒される。
置かれた小物は、けして高価ではない。なのに配置のバランスなどが絶妙で、十二分に趣味の良さが感じられた。
ガイウスか――もしくは、彼の妻か。
「申し訳ない。なにせ男の独り暮らし、ろくなもてなしもできません」
通された部屋の椅子に腰かけ、しばらく待っていると、果物と炙った肉を手にガイウスが戻ってくる。
「独り暮らし? 奴隷達はどうした。――奥方も」
向かいに腰を下ろし、酒を注いでくれるガイウスに向かって、問いかける。
反応は、肩を竦めた困ったような笑顔だった。
もしかしたら、別居中なのかもしれない。ローマではよくある話だ。
かの名君、アウグストゥスでさえ妻、娘達の言動に悩まされたとされている。今でも、気の強い女は夫に見限りを付け、離婚を前提とした別居に及ぶ事も少なくない。
だとしたら、尋ねた自分のなんと無粋な事か。
だが、このガイウスに愛想を尽かす女がいるとも思えない。もし自分が彼の妻であれば、その幸福に酔いしれるはずだ。
「妻などおりません。いたこともありません。私はずっと、独身ですから」
自分の馬鹿げた思考に呆れるよりも早く、ガイウスが眉を歪めたままに笑う。
「奴隷も、置いていません。父の代にはいましたが、すべて解放しました」
さらりと、非常識な言葉を言い放つ。
奴隷を置くのは常識だった。貴族だけではなく、裕福な商人などでさえ、奴隷の数によって優劣を示す。
ペトロニウス家ほどの貴族ならば数十人いたはずだが、それらをすべて解放してしまうとは。
「何故?」
「身の回りのことくらい、自分でできますから」
唖然とするルキウスに、白い歯を見せてから、でもと続ける。
「このような事態になるのでしたら、料理人くらい雇っておくべきでした」
いたずらな視線を向けられ、年にそぐわぬ少年らしさが見えて、ついくすりと笑ってしまう。
「しかし何故、結婚もしなかった?」
失礼だとはわかっていたが、尋ねずにはいられなかった。
ガイウスはもう、二十八歳だ。貴族で元老院議員、しかもこの容貌と人柄で、女性が放っておくとは思えない。
また、ローマでは結婚してようやく一人前と扱われる。独身を貫く事そのものが、非常識ではあった。
さすがに気を悪くするかと危惧するも、ガイウスは照れた笑顔で首の後ろをぽんぽんと叩く。
「このようなことを言うと笑われるかもしれませんが――結婚するのであれば、一生愛せる人がいいのです。なかなか、そのような女性と巡り会えなくて」
返答は、予想外のものだった。
あの、オトでさえ結婚している。相手は絶世を謳われる美女だった。なのにオトの女遊びは治らず、あまつさえ彼は男と信じているはずのルキウスにすら手を出そうとしている。
だがオトの言動を、特別おかしいとは思っていなかった。上流階級の男としては、よくいる人種である。
それが、一生愛せる人と出会うまでは結婚しないとは。
「――もし、愛した相手が男だったら、あなたはどうする?」
訊いて、どうなるというものでもない。けれど、気が付いた時にはもう、問いが口から出た後だった。
「ご冗談を」
しまったと後悔するよりも早く、一瞬きょとんとした顔をしたガイウスが噴き出した。
男色は決して、珍しい話ではない。特にギリシア文化に親しんでいるはずのガイウスにとっては、馴染みのあるものだ。
そう思っていただけに、あっさりと否定されて驚きが湧く。
――否、仮に彼が男でも大丈夫な人間だったとしても、ルキウスとどうにかなる事態だけは、あり得ない。
ルキウスは男ではなく、女だった。だからこそ、結ばれることはない。
ああ、一層のこと本当に男であったなら――むしろ、本当の姿、女として彼と出会っていたなら。
無意識の内に浮かび上がった自らの願望に、愕然とした。
「――まぁ、男というのは極端な話ではあるが……愛した人が、決して結ばれることのできない相手の可能性はあるだろう。例えば、そうだな、人妻だとか」
「あり得ません」
自分の思考に焦燥感を覚えながら、だからこそ冷静さを取り繕う。何気ない会話を装っての問いかけに、ガイウスは即座に答えた。
生真面目そうな彼のこと、不倫を良しとはしないだろう。伴侶のいる女性をわざわざ選んで恋に落ちるなどとは、確かにあり得そうにない。
けれど――
「だが、人の心はわからない。そのつもりはなくとも惹かれてしまうことはあるだろう」
口にするのが、心苦しい。まるで、自身の心情を吐露している気分だった。
ガイウスが、困惑気味に眉を歪める。
「確かに、ないとは言い切れませんが……」
「その場合、あなたならどうする?」
決して、自分の問題ではない。ガイウスのことを訊いているのだ。
そういった体を繕うことで、頭を切り替えようとする。――薄々と感じる自分の感情から、目をそらす。
そうですね、と呟いて考え始めたガイウスの沈黙は、長くは続かなかった。
「奪います」
返答は、意外なものだった。
たとえ罪人だとしても、法で裁かれるべきで私刑はいけない。そう言っていたガイウスならば、たとえ想いがあっても諦めると思っていたのだけれど。
「それが罪と承知の上でか」
「その人が今、幸せでないのなら」
重ねた問いに、真面目な表情で答えてくれる。
ああ、やはりこの人らしい。浮いた感慨に、嘆息が洩れる。
決して自分本位にはならない。相手が幸せであるならばきっと、想いを飲み込み、身を引くのだろう。
「――そうか。あなたにそれ程想ってもらえる人は、幸せだろうな」
ルキウスがその幸せを得ることは、あり得ない。
胸が痛くなる。わずかに覚える息苦しさが、切なさを物語っていた。
「皇帝」
口の端に滲んだ苦笑は、意図したものではなかった。溜め息を吐くルキウスに、ガイウスは小さく首を傾げる。
「――何か、おありになったのですか?」
静かな問いかけは、ルキウスを現実に引き戻すのには充分だった。
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