第37話 再婚

 それからほどなくして、オクタヴィアの有罪が決定した。

 本来ならば証拠不十分となるところを、宮殿に出入りしていた吟遊詩人の一人で、ギリシア出身の美少年を言い含め、金を握らせて偽証させたのだ。


 勿論、違法だった。それでもなお、手段を選ばなかった。


 オクタヴィアは、何一つとして言い訳しなかった。

 偽りの証言にも眉一つ歪めない。裁判の席で久しぶりに会った時も、ただ礼儀正しく、頭を下げただけだった。

 判決を下された時でさえ、取り乱すこともなく、静かに穏やかな微笑みを浮かべた。


 観念していたのだろうか。

 結果的に望みは果たされたはずなのに、心は晴れない。逆に、欝々と曇った気がした。


 もっと、抵抗するかと思っていた。

 泣いて縋りつき、傍に置いてほしいと頼んでくるのでは、と。


 そうされても、許す気はなかった。面倒事にならず、安堵して然るべきこの結果を、ぽっかりと胸に穴が空いたような気持ちで見つめていた。

 裏切られたと確信していてもなお、オクタヴィアに頼ってもらえると思っていたのだろうか。


 文句一つ言わぬオクタヴィアをカンパニアの別荘に送り出し、ルキウスはようやく私室へと戻った。


 オクタヴィアと二人、長い時間を共有した部屋。ルキウスの幸せを象徴するこの空間で、彼女のことを思い出さずにいられるはずがない。

 時刻はまだ夕方に差しかかったばかりだったが、何もする気力もなかった。


 ここで、こうやって一人で眠るのはどれくらいぶりだろう。


 寝台に体を投げ出し、ため息が洩れる。

 ――同時に、閉じた瞳からは涙も。


 なぜ、自分は泣いているのか。

 これが、望んだ結果。自分の意思で、オクタヴィアを追放したはずなのに。


 なぜ、これほどまでに寂しいのだろう。


 どうしようもない空虚感に、息がつまる。


「――陛下」


 声が、聞こえた。

 そう遠くではない、囁くような女の声。


 幻聴だろうか。ルキウスは真っ先に、自分の精神状態を疑った。

 オクタヴィアに想いを馳せ、あまりの寂しさから彼女を求めたのかと。


 幻でもいい。――否、幻ならば尚よかった。虚勢を張らず、真実の心を打ち明けることができるかもしれない。

 オクタヴィアならきっと、聞いてくれる。とりとめのない、支離滅裂な話だってきっと、彼女なら。


 けれど、違う。オクタヴィアならば、「ルキウス」と呼びかけてくるはずだ。記憶の中で、「陛下」などと呼ばれたことはない。

 怪訝に思い、目を開けてすぐそこにあったのは、ポッパエアの顔だった。


「――っ!?」


 幻などではない。


 反射的に飛び起きる反動で、ポッパエアを突き飛ばす格好になった。きゃっ、と小さく悲鳴を上げて倒れる彼女を見る目が、自然と厳しくなる。


「――何故ここに?」

「外から声はかけたのですが、お返事がなくて……陛下の身に何かあったのではないかと、無礼を承知で入ってきてしまいました。申し訳ございません」


 嘘だ。

 皇后の座が空白になったのを見計らって訪ねてきたのは、後釜に座りたいからに決まっている。


 現に、助け起こすために差し出したルキウスの手を、握り返す手つきが妙に艶めかしい。瞳の奥で輝く、怪しげな光にも気付かされた。

 浅ましい下心に、吐き気さえする。


「確かに、無礼な話だ」

「――え?」

「この部屋にはもう、二度と近付かないで頂きたい。よろしいか?」


 言い放ったルキウスへの目付きは、憎悪の色さえ含んでいた。


 ポッパエアの美貌は、比類なきものだった。ヘレネに例えられるのも頷ける。

 だが、無垢故の罪を重ねたヘレネと違い、ポッパエアは自らの野望に生きる女。アグリッピナと同種で、他人は全て利用するだけの道具として使う。


 オト然り、今またこうやって、皇帝を陥落させようとしていたのは、火を見るよりも明らかだった。

 相手は世間知らずの皇帝、すぐに意のままに操ることができる――そのはずだったのに、冷淡に扱われるのがよほど不本意なのだろう。


「――申し訳ございませんでした」

「いい。して、用件は?」


 殊勝な顔をして見せているが、苛立ちが口の端に表れている。謝罪に対しても冷徹な反応を返すと、それはさらに強くなった。


 ルキウスとて、理解はしている。美貌に自信のある女が、胸元の大きく開いた短衣トゥニカを着て、「男」の寝室へと訪ねて来たのだ。目的など、わかりきっている。

 その上であえて問いかける自分の意地の悪さも、自覚していたが。


「――オクタヴィア様の裏切りで、陛下がお心を痛めているご様子でしたので……できることならば、陛下のお役に立ちたいと」


 胡散臭いほどの、熱っぽい視線。野心むき出しの顔に、ふと、利用価値を見出した。


「私の役に、か」


 寝台の端に腰を下ろしながら、ポッパエアを見上げた。形ばかりの笑みの冷たさが、自分の唇をも凍り付かせてしまうのではないかと錯覚する。


「ならば一つ、協力してみるか。――なに、難しいことではない。私と結婚してくれればいいだけだ」


 ごくあっさりとした、求婚の言葉。

 意味を計りかねたのか、ポッパエアが一瞬、きょとんとこちらを見る。だがすぐに、喜色の強い笑顔になった。


 関心のないふりをしていても、皇帝はすでに自分の美貌に参っていた――優越感にも似た感情が見て取れて、眉を顰める。

 だからこういった人種は嫌いなのだ。

 だが同時に、同種ではあってもアグリッピナ程に扱いにくい女ではなさそうだと判断する。


「結婚とはいえ、もちろん形式だけのものでいい。好きな男でもできれば、遠慮せずその男に嫁いでくれ。すぐに離縁してやるから、何の心配もいらない」

「――どういう、意味ですか」


 あえて突き放した物言いをするのは、ポッパエアの増長が面白くなかったからだ。

 お前を愛しているわけではない、自惚れるな。そう、釘を刺す意味合いもあった。

 ちらりと一瞥を向けた後、ふいと顔を逸らす。


「私はオクタヴィア以外の女を愛するつもりはない。否、愛せるはずがない。だが皇帝という立場上、いつまでも独り身でいるわけにはいかないからな」

「それで、形ばかりの妻を演じろと?」

「君の見栄えは素晴らしいからな。皇后として、絵になる。形ばかり美しい君には、似合いの役だろう?」


 言わなくてもいいはずの蔑みを口にするのは、計算ではなく感情の発露だった。

 うまい策ではないとわかっていたが、逆にポッパエアの自尊心に傷を付け、よき皇后になって見返してやろうとでも躍起になってくれればいい、とも思い返す。


 断ることは、あり得ない。

 たとえ形式だけとはいえ、手に入れる権力に変わりはないのだ。おそらくそのために夫を捨てたであろう女にとって、好機であるのは疑うべくもない。


 斯くて、ポッパエアは「皇帝ネロの妻」となる。ルキウスにとって、面白くもない芝居の日々が始まった。

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