第七章

第38話 セネカ

 ルキウス・アンナエウス・セネカ。

 自分と同じ名ではあったが、親しみなど覚えたことはない。

 そもそも「ルキウス」という名自体がありふれており、特段珍しくもない以上に、彼があまりにも自分とかけ離れた性格なのだから、無理もない。


 幼い頃の傅育官、今では摂政となった男。

 アグリッピナ死亡後の動きを最後に、すっかり彼の存在を忘れかけていた。


 もっとも、その間も彼が名声や金をかき集めていたことは知っている。ルキウスにとっては害になるわけでもなく、放っておいたのだが。


 そのセネカが、行動を起こした。わざわざ謁見の間にて、正式な面会を申し込んできたのだ。


 ただ話をするだけであれば、公務室を訪ねてくればすむ。それをあえて側近や兵士達の前で行うのは、何らかの意図があるとしか思えなかった。


 一体、何を企んでいる?


 謁見に際し、目前で深々と首を垂れるセネカを見る目が、厳しくなる。

 想定される話としては、オクタヴィアとの離婚の件だ。

 それに続くポッパエアとの結婚など、言語道断――そう公言してやまないセネカが、ルキウスを諫めるためではないのか。

 公衆の面前で行うのは、皇帝の権威を貶めるため。


「統治が始まって以来、陛下は多くの名誉と富を、私に与えて下さいました。心より、感謝を申し上げます」


 挨拶の後、続けられた言葉に眉を顰める。

 それらを与えたのはルキウスではない。セネカが摂政の立場を利用し、腹黒く集めたものだ。


 その責任さえも、押しつけるつもりか。


 不快ではあるが、それよりも予想と違う物言いの方が気にかかる。咎めるよりも、話を進める方が先決だった。

 無言で促すルキウスを、セネカが見上げる。


「けれどそれらは全て、私の身に余るものでございます。何より、私が陛下のお力になれることは、残っておりません。アウグストゥスも、側近アグリッパとマエナケスに対し、私生活に隠匿する事をお許しになりました」


 ぴくり、と片眉が跳ね上がる。

 なるほど、そうきたか。口の端に、自嘲が滲む。


「私も、寄る年波に疲れ果て、富の重みに耐えることができなくなりました。それらを今後、陛下の財産の一部とされ、国家のためにお役立て下さいますよう、お願い致します。私自身は生活できるだけの財産を残して頂き、静かに余生を暮らす事を欲しております」


 やはり。

 ルキウスは、目を細めてセネカを見やる。


 彼はルキウスを――皇帝カエサルネロを見限ったのだ。


 予想外だったのは、財産を差し出すと言ったことだ。

 セネカは、有名な哲学者だ。それも贅沢を嫌い、飽食を何より軽蔑するストア学派の。

 彼自身はその思想に寄り添うことなく、贅沢の限りを尽くしている。要職を離れたとしても、生活を変えられるとは思えなかった。


 もっとも、魂胆はわかる。セネカは残虐な皇帝に利用され、捨てられた悲劇の哲学者を気取ろうとしているのだ。

 もちろん、ルキウスがセネカを利用していたのは事実である。正確には、天才哲学者セネカの名前を、ではあるが。


 統治初期、ルキウスが良策を出したとしても、十七歳の少年皇帝の言葉には重みがない。そのような時にセネカの名を出せば、皆もすぐに納得してくれたものだ。


 そう、その名前にはまだ、利用価値がある。そう思っていたからこそ、アグリッピナ死後も摂政の地位を剥奪しなかった。


 有名な哲学者の肩書きは、伊達ではない。頭の回転は早かった。自分の利益になることならば、特に。

 そのセネカが、自ら引退を表明するとは。

 何を意味するのか、考えるルキウスの頭に、一つの可能性が浮かんだ。


 皇帝暗殺。


 今までも、ただ皇帝というだけで命を狙われることはあった。しかしアグリッピナの死後、ルキウスは自覚のある罪を犯し続けている。

 オクタヴィアとの離婚が、それに火を付けてしまったのではないか。


 彼女は由緒正しい血統と、清楚な美しさから人気が高かった。

 それを偽証で罪を捏造し、一方的に離婚したルキウスに対して、義憤に駆られる者はいるだろう。そういった者達が暗殺計画を立てたとしても、不自然ではない。


 先程セネカは、皇帝ネロを神君アウグストゥスに例えた話をしていたが、実際に重ねて見ているのはルキウスの伯父であるガイウス――カリグラ帝だろう。


 カリグラが暗殺された後、側近達はどうなった?

 厳しい詮議を受け、中には法的に命を奪われた者までいた。

 それを避けるため、自らも被害者のようなふりをして、ルキウスに汚名を着せようとしている。


 まるで、沈みかけた船を見捨てる鼠のように。


 沈んでなどやるものか。目を上げ、ルキウスは笑みさえ刻んで見せる。


「先生――あなたが準備された演説に、こうやって、私が直ちに応えることができるのは、偏にあなたのおかげです。あなたが私に授けてくれたこの才能は、一生続くもの。それに比べ、私があなたへ渡した富は、いつ消えてもおかしくはない。それを考えると、自らの不甲斐なさに顔が赤らむ思いです」


 返答を予期できていなかったのか、セネカは目を丸くしたまま、黙ってルキウスを見上げている。


「しかもあなたはまだ六十五歳。年齢的に言っても、引退にはまだ早い。私が若さからくる過ちを犯したのならば、それを正して下さることこそが、あなたの私に対する愛情。あなたの助言によってこそ支えられている私を、もう支えては下さらないのか? これほどまでに導きを必要としている私を一人、残してしまわれるのか」


 心にもないことを平然と言って、悲しげな表情さえしてみせる。

 セネカは、唖然としていた。

 おそらく、ルキウスが何も言えず、その提案を受け入れると思っていたのだろう。もしくは、財産が手に入るといって喜ぶとでも侮っていたのか。


 セネカの顔には、焦燥が濃く貼りついていた。このままでは引退すらできない、一緒に沈んでしまう――刻まれた焦りの色に、辛うじて嘲笑を堪えながら続ける。


「それに、人々はあなたの勇退を褒めるより、私の残酷さを非難するでしょう。あなたの弟子たる私を破滅させることは、真の賢人である先生、あなたにはあまりにも似つかわしくない。――それとも」


 一旦言葉を区切るのは、より注意を引くためだった。

 この演説の技法も、セネカに教わったもの。確かに功を奏する方法だった。

 にやりと、口の端をつり上げて見せる。


「それとも、それこそがあなたの望みなのかな?」


 セネカの顔面が、蒼白に染まる。まさかこれほど、あからさまに顔色を変えるとは思わなかった。


「め、滅相もございません!」


 よほど怖かったのだろう。上げられた声は、悲鳴じみたものだった。


「わかっているとも。あなたは私が敬愛する先生だ。私に弓引くことなど、あり得ない」


 そうでしょう?

 くすくすとおかしげに笑って、念を押す。


「とはいえ、引退したいというものを無理に引き留めることもできない。残念ながら、諦めます」


 軽く嘆息して、頭を振って見せる。一挙手一投足が、セネカに恐怖を植え付けるだろうことを、計算ずくで動いた。


「けれどあなたの財産は、あなたへに対する私の感謝の証。それを私が受け取ることはできない。そのまま、お納め下さい。あなた自身がおっしゃったように、私はアウグストゥスの例に従います」


 にこりと、今度はできるだけ無邪気に見える笑みを刻んだ。


「神君は側近達に休息を許したが、彼らに与えた報酬を取り戻すことはしなかった。アウグストゥスに劣る私が、それ以上のことをするのは許されない」


 立ち上がり、セネカに向かって歩き出す。目に見えて、彼の体がびくりと竦んだ。

 そのような反応には構わず、助け起こす状態でセネカを立たせ、そっと抱擁した。


「先生、くれぐれもお体を大切に。私の、あなたに対する尊敬と愛着が永遠に変わらないように、あなたのお身体にも健康がもたらされますように」


 誠意を見せながらも、セネカの背中に回した手に力を込めて、無言の脅しをかけることも忘れない。

 偽りの追従を誰よりも嫌っていたのは、ルキウスだった。他でもないその自分が、弁舌の師であったセネカに、心にもない敬意を示しているなど、なんと皮肉なことか。


 アグリッピナがいなくなっても、あの黒い血がまだ残っている。

 ――自分の、この体の中に。


 ルキウスの嫌悪は、セネカだけではなく自らにも向けられていた。

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