第7話 覚悟
「あとは君の好きにしろ」
続けられたルキウスの声は、予想もできぬものだった。
「私と離縁するもよし、ネロは女だと公表し、皇帝の座から引きずり降ろして死刑にするもよし。君の好きにするがいい」
暗闇に定まらぬ視線を投げながらの口調は、まるで他人事のようだった。
オクタヴィアは、状況を把握することができなかった。
保身のためにブリタニクスを殺したのは、ルキウスのはずだ。彼と同様、邪魔者でしかないオクタヴィアに、殺すつもりもないのに、身の破滅に繋がる秘密を話す意味がわからない。
「どうして――?」
「恋心を捨て、完全に憎みきることができるように、だ。このまま偽りの結婚を続けるのは苦痛だろう? それに――」
一旦区切った、というよりは、言葉につまったように見える。
先を待つオクタヴィアを肩越しに振り返り、彼――彼女は、弱々しく笑った。
「君を必ず幸せにすると、ブリタニクスに約束したから」
軽いため息と共に声を吐き出して、ルキウスはまた、視線をあらぬ方へと向ける。
「全てを知らせた上で、君に選択してもらう。これが私にできる、君の幸せのためにできる唯一のことだ」
この人は、暗殺者ではないのかもしれない。
でなければ、利害を省みずに話してくれた理由がなかった。
よかった、と思う。
ブリタニクスが慕った人が、彼を裏切ったのではなくて――そうやって後のことを託したのならば、ブリタニクスもルキウスが犯人ではないと、わかっていたのだろう。
彼が死に瀕して、絶望を抱いたのでなかったことが、救いだった。
「――彼を殺したのは、私ではない。信じる必要はないが」
静かな語り口だった。
けれど、熱を帯びた声が、掠れている。
「殺したも、同然だ。私のせいで殺された、その事実に変わりはない」
死んでしまった……いなくなってしまった。
独り言のように呟く姿は、痛々しかった。
この人も私と同じ、大事な人を奪われた被害者なのか。
胸が、痛む。
大事な友を亡くしたのに、その罪が自分のものだと周囲に誤解されている。
そして間違いなく自分のせいで死んだのだとわかっている。
もしかしたら、オクタヴィアよりも心痛は強いのではないか。
「――ごめんなさい」
寝台の上に置かれたルキウスの手に、そっと手を重ねる。
冷たい、指先だった。
オクタヴィアが倒れている間に、ルキウスはきっと一人で全てに対処していたのだろう。
「あなたを疑ってしまって――あなたも、これほどに苦しんでいるのに」
謝罪を受けたとして、ルキウスの心が軽くなるわけではない。それでもオクタヴィアは、謝らずにはいられなかった。
「まさか――信じるのか。私の言うことを」
ルキウスが、愕然と振り返る。
信じられぬものを見るような目つきに、わずかに笑ってみせる。笑顔になれていたかは、自信はないけれど。
「だって、ブリタニクスと私がお慕いした方ですもの」
「君の感情は、報われないものだ! つい先程教えたばかりだろう。私は女だ。ずっと騙し続けた私を、何故憎まない?」
叫び、ルキウスはオクタヴィアの手を払う。
自分では、気づいていないのかもしれない。けれど暗闇の中、輝く瞳が見て取れた。
――溢れそうになる、涙が。
ずっと、こうやって苦しんできたのか。
女であることを隠すため、どれだけの努力をしてきたのだろう。オクタヴィアと結婚してからは、どれだけ不安だったのか。
義弟であると同時に友人であったブリタニクスの権利を奪うことになり、オクタヴィアを欺き続ける罪悪感に苛まれていたのかもしれない。
――可哀想な人……
何年もの間、想い続けた思慕は幻だった。寂しくは思うけれど、憎しみは湧いてこない。
誰にも頼れず、自分自身を許せず、泣くことさえできずにいる相手を憎むことなど、到底できなかった。
「何故責めない? 偽りを正すことさえできず、ブリタニクスを死なせてしまったのは私だ。真実を隠しさえしなければ、彼は死ななかった。君の、弟だ。憎くないはずがない。さっさと出て行って、私を告発すればいい」
泣きそうに歪んだ笑顔が告げたのは、確かにそうすべき事柄ではあった。
だが、オクタヴィアは足を踏み出すことができなかった。
女は、皇帝になれない。ローマの法律から見ても、ルキウスは罪人だった。
それだけではない。オクタヴィアが信じる宗教においてもまた、罪を犯している。
女が男の姿をしてはいけない。これを知りつつ黙認することは、同じ罪に問われるのである。
教えに従うのならば、ルキウス自身が言ったように、罪人として告発すべきだった。
だが、事実が発覚すればどうなる?
おそらく処刑の上、皇帝ネロの名はすべて、消されるだろう。
それを承知で、告発などできるはずがなかった。
「――憎んだり、しません。事実を知った今も、これから先も、きっと」
そっと、ルキウスの肩に手をかける。ビクリと身を竦ませる姿が、痛ましい。
「君を……ずっと騙していたのに……?」
半身で振り返ったまま、オクタヴィアを見つめる瞳が、非常に弱々しかった。
自分は今まで、この人のなにを見ていたのだろう。ふと、思う。
誰よりも強く、聡明で、美貌を誇るどこか冷たい人――ルキウスに対して感じていた印象は、ほんの一面でしかなかった。
否、これほどまでに脆い部分があるなど、本人も気付いていなかったのではないか。
オクタヴィアにとってルキウスは、掴み所のない、気まぐれな神のようだと思っていた。
だけど、自分と同じ一人の人間。
守ってあげたい。
オクタヴィアは微笑みと共に、頭を振った。
「でも、そのおかげで私達は夫婦になれました」
虚ろだったルキウスの目に、驚きが浮かぶ。
「何を言っている――?」
「ブリタニクスは、いい友人だったでしょう? だから、私にその代わりをさせて頂きたいの」
「――え?」
「秘密を守るの、少しは楽になると思います。一人よりは二人。それに、形ばかりとはいえ、私はあなたの妻ですから。誰よりも傍にいる。――心強い味方に、なれると思います」
そう、なりたい。
つけ加えたオクタヴィアを愕然と見上げ、やがて、ルキウスは信じられないという風に頭を振る。
「嘘だ……許されるはずがない。私は――」
自身を責める言葉をなおも紡ごうとするルキウスを遮るように、そっとその体を抱き寄せる。
冷え切った体は、鍛えられているだけあって逞しくもあったけれど、オクタヴィアが思っていたよりもずっと細かった。
今までとは違う愛情が、胸に湧いてくる。
地獄に、落ちるかもしれない。
それでも構わなかった。今、この人を救えるのは自分しかいないのだから。
共に、罪を背負う覚悟は、できた。
そっと、ルキウスの柔らかな髪に指を這わせる。
「だからもう、一人で苦しまないで。泣きたいときは、泣いてもいいの。あなたはもう、一人ではないから――私はずっと、あなたの傍にいる」
たとえ、地獄の底であろうとも。
最後だけは、声にしなかった。それを覚悟するのは、オクタヴィアだけでいい。
「駄目だ。私は、君たちにとって加害者に他ならない。泣く資格など……」
駄目だ。何度も繰り返し呟きながらも、その声が段々と涙声に変わっていった。
抱きしめ、そっと背中を撫でてやる。まるで母にすがる子供のように、ルキウスが手を伸ばしてきた。
もう、堪えが効かなくなったのだろう。何度も何度も、すまないとオクタヴィアに謝り続け、嗚咽の合間にブリタニクスの名を呼ぶ。
ずっと、泣くことさえできなかったルキウスが、やっと心情を吐露することができた。
――少しは、慰めになればいいのだけれど。
ルキウスを抱きしめる腕に力を入れながら、オクタヴィアもまた、頬に伝う涙を感じていた。
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