第二章

第8話 善政

 ブリタニクス暗殺の犯人は、皇帝カエサルネロである。


 ルキウスの想いなど知らぬ市民は皆、その噂を鵜呑みにした。

 実際、もっとも疑わしき人物はルキウスなのだ。否定など、ただ虚しいだけだった。


 意外だったのは、異論を唱える者がいないことである。

 皇帝派の人間が――たとえ実際に手を下したのであったとしても、評価が下がるのを防ぐために別の噂を流すだろうと思っていた。


 だがそういったことはなく、ローマ市民の間ではルキウス犯人説が定着してしまった。

 なのに誰も、ルキウスを追求しない。

 ブリタニクス派の元老院たちでさえ、泣き寝入りを決め込んだようだ。


 おそらくは、皇帝ネロの人気の高さゆえに。


 市民たちの反応は、いたって冷静なものだった。上層階級の、血で血を洗う争いなど、今に始まったことではない。

 兄弟殺しと言っても、そもそもローマ建国の祖、ロムルスとて弟レムルスを殺して、初代王となったのだ。

 自分たちの、平穏な生活さえ守ってくれればいい。

 市民にとっての皇帝とは、所詮その程度だった。


 ルキウスの、皇帝としての評価は高かった。善政を行い、人々の英雄となった初代皇帝、アウグストゥスをすら超える勢いである。

 もちろん、美貌のおかげもあるだろう。ローマ市民に限らず、民衆とは見目麗しい者を好む傾向にある。

 だがそれだけではない。ルキウスが目指す透明な政治体制に、市民は好感を寄せていた。


 以前の裁判は、裁判官や皇帝の懐に金を流し込み、判断を曲げてしまうことが多々あった。ルキウスが尊敬する、あの優しいクラウディウス帝も例外ではない。

 しかし、ルキウスはそれをよしとしなかった。寄贈される金品はすべて拒否し、より事件を知るために詳細まで調べ上げた。

 また、弁護人や検察官が一方的に話さないよう、それぞれが交互に主張を述べあうシステムも作り上げた。

 そのせいで手続きは面倒になったが、おかげで内容は異論をはさむ余地がないほど、鮮明になった。財産を没収するために仕立て上げられた、裕福な無実の罪人を多く救うことができるようになったのだ。


 なにより、ルキウスは貧しい者の悲惨に目を向けた、初めての皇帝だった。

 貧しい者から吸い取って、豊かな者を更に肥えさせる税金体勢に、どうしても納得できなかったのだ。


 ローマは、一部の貴族を富ませるための国家ではない。

 では、どうするべきか。

 思い悩み、まずは税制を廃することができないかと考えた。

 もっとも、さすがにそれはすぐに断念する。国家として成り立たないからだ。

 次に考えたのは、ある一定の線を引き、それより下の者からは税金を取り立てないやり方だった。

 いずれ、皆がある程度の稼ぎを維持できるようになってから、それぞれが苦にならぬほどの税を課せばいい。


 これは、妙案に思えた。

 だがいくら皇帝と言えど、一人で法を改定するわけにはいかない。元老院の、過半数の賛成が必要だった。

 そしてその、元老院議員こそ「一部の貴族」なのである。自らに不利な法案に賛成するなど、あり得なかった。


 そう結論した時、ルキウスは皇帝という仕事の限界を感じずにはいられなかった。

 とはいえ、できることがないわけではない。

 思い直すと、国庫ではなく、自らの金庫を解放し、貧民たちに無料で食料を配布した。


 ネロ。

 サビナ語で「力と正義」を意味するこの名は、ルキウスの統治をもっとも顕著に表していた。


 そのネロが犯した、自分の身を守るために犯した、一つの殺人。

 市民たちにとってはそれを糾弾するより、皇帝を褒め称えることの方が、有益だったのだ。


 ブリタニクスの死を除けば、ルキウスは公私ともに充実していた。

 否、それさえもオクタヴィアとの絆という、かけがえのないものを与えてくれた。


 ふと、思い出す。ブリタニクスを失い、途方に暮れたあの夜のことを。

 同じように――血を分けた弟だ、ルキウスよりももっと辛かったはずのオクタヴィアは、それでもルキウスを慰めてくれた。

 彼女の腕に抱かれ、その柔らかさと暖かさに触れ、涙が止められなくなった。


 不思議だった。

 ブリタニクスの死がどうしようもなく辛いのに、涙と共に少しずつ心が晴れていった。

 世の中に、あれほど幸せな瞬間があるのだと、ルキウスは今まで知らなかった。


 以来、ルキウスは精神的にオクタヴィアを頼り続けている。守ってあげているのだと思いたいが、支えられていることを否定できなかった。

 この幸せが、いつまでも続くものと思いこんでいた節がある。


 ――不幸の種は、いつでもすぐ近くに潜んでいるというのに。

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